戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「夢」と「目標」

 

「夢」と「目標」の違いはなんだろうか。
ちゃんとした違いがあるのかも知れませんが、とりあえず自分なりに考えてみる。
どちらかというと「夢」は目標よりずっと遠くて大きいような気がする。
「夢がある話だなぁ」と言えても、「目標のある話だなぁ」とは言わない。
そう思うと、「夢」はずっと理想だとか、ワクワクしたフィクションに近い存在。
対して、「目標」は現実的な指標なように感じる。


「目標」を持つ理由は、到達点をはっきり決めることで、それに必要な過程・計画を見定めるためにある。
基本的には目標に到達することが前提として考えられており、それができなければ目標を変えたり、やり方を変えたりと試行錯誤を行う。
しかし、比べて「夢」は、どうも叶えるためにあるものではないように感じる。
叶ってしまうとそれは「夢」から「現実」のものになってしまう。
それでは困ってしまうのだ。
自分の手では届かないところ、そこに想いを巡らせワクワクすること、それ自体が「夢」の目的なのではないだろうか。

そう考えると「夢」なんて持っても仕方ないだろうと思ってしまうが、しかし、「目標」ばかり掲げて日々を必死に生きていると、どうも息が詰まってきてしまう気がする。
きゅうっと視点が狭くなって、堅苦しくなっていき、余計に目標から遠ざかってしまう。
そんな時に「夢」が欲しくなる。
自分から届かない雲の上まで世界を広げることで、たとえ届かなくともいつもより高く飛べるようになったりする。
それが、「夢」のすごいところだろうか。
「夢」というのは太陽みたいなもので、掲げ続けることで自分の先が照らされ、おのずと「目標」も見つけられるんじゃないかなぁ。

スケジュール帳の落とし穴


物事を進める時、そのスケジュールを立てるのはとても大切なことである。
そんなことわかってはいるのだけど、どうも苦手です。
これはいけないと、最近では手帳を買って、色々と日々の記録や先について書いて考えたりして、多少マシにはなりましたが。
しかし、いけないのがそのスケジュール帳を軸に物事を考えてしまうこと。
スケジュール帳に余白があると、その日が無だったように見えてしまう。
いや、そんなことはないだろうと。
むしろ、そういう余白の日が貴重で大切なんじゃないかと。
そのスケジュール張の余白に惑わされて、次々と予定を書き込んでしまう。
しかし、実際にその日にできることは、書き込んだ2行くらいなのである。
自分とスケジュール帳をイコールにして考えてしまうと、そこのズレに溺れてしまう。
スケジュール通りに物事が進まなかった時に「自分はだらけてしまった」なんて思ってしまうが、実際の問題は自分を無視した無理難題のスケジュールを組んでしまっていることがほとんどだ。
それなのに「自分はだらけてしまった」「次はもっと頑張らないと」と考えてしまっては、いつまで同じミスをし続けるのである。
特に自分事で進めているものほど、なるべく小さく、甘く、簡単に、スケジュールを立てないと、いつまで経っても自分の経験値がたまらない。
自分の腕は2本しかない、自分の限界をスケジュールにちゃんと組み込まないとなぁ。
限界突破で甘えていては、一生スケジュールを立てられるようにならないでしょう。

言葉と刃

 

「言葉は刃物なんだ」なんて言われている。
とてもよくわかる。
私も実際、色々な人たちの何気ない一言に傷つき、悲しさや、腹立たしさ、もどかしさ、悔しさ、色々な感情がぐちゃぐちゃになってきた。
しかし、だからと言って「言葉は刃物なんだ」とスカして言ったところで、どうしようもないものでもある。
相手を傷つけることを恐れて何も言わないのは、一見良さそうに感じるが、それは無責任でもある。
こんなこと言うのもなんだけど、やはり傷つけずに綺麗に生きようなど、あまりにも自惚れ過ぎではないだろうか。

多少、腹括って踏み込まなければ始まりすらしないのである。
そもそも、どういう言葉を使ったら相手が傷つくのか、それを把握するためには多少相手を傷つけないとわからないものだ。
一度も転けないで自転車に乗れるようになる人はいない。
それで、「自転車は危ない乗り物だ」と言ったところで、何の問題も解決していないのである。
けれど、初めて自転車乗るというのに、いきなりウィリーやろうとするのは違うわけです。
身の程を弁えなければ、自分が大怪我するどころか、他者を怪我させる可能すらあるのだ。
擦り傷くらいならいい。しっかり謝罪すればなんとかなる。
けれど、相手の下半身を麻痺させてしまうような取り返しのつかないこと、これだけは避けなければならない。

動物がお互いを噛み合って戯れたりする。
ああやって、時にはやり過ぎて怒られたりしながら力加減を学んでいくものだ。
戯れ合いというのはとても大切だ。

「インタラクティブ」と遊び

 

インタラクティブ、いわゆる相互作用、片方からではなくお互いがやり取りし影響し合うこと。
遊びにおける、本質、根本原理、最重要事項だろうか。

コミュニケーションという言葉がある。
これもインタラクティブと似ているが、伝達や意思疎通の意味合いが強い。
インタラクティブの目的は相手に伝えたり、わかってもらうではない。
相手に影響を与え、その跳ね返りを受け取ること、そういう現象・動きに重きがある。
それは、自分を伝えて相手に理解してもらうことで関係性を構築するのではなく、相手に投げて、その跳ね返ってきたものから相手を理解すること。
色々な投げ方をして、その跳ね返りの変化から相手を捉える。
そして、それは相手を理解するというより、自分なりに相手を解釈し、自分なりに相手を立ち位置を決め、距離を作る、と言った方が正しいか。
お互いが理解し合う必要なんてない。
お互いにとってより相互関係・影響を与えあえる(偏りがなく)こと、それが大切。

ある意味、相手を完全に「他人」として置き、伝達し合って同じグループになるわけではなく、「他者」として尊重しながら繋がることである。

今日では、「つながり」というものを求めている人たちが多く感じるが、実際に必要なのはコミュニケーションではなく、インタラクティブな関係性ではないかと思う。

コミュニケーションの強要、コミュニケーションという免罪符の元に自分の嫌いなものを排除、自分が正しいことを確立させたいがための他者への圧力。
なにか、コミュニケーションという言葉には、あまりにも多用され過ぎて非常に欲深い愚かな言葉に成り下がっているように感じてしまう。
そうではなく、欲とか、企みとか、願いとか、正義とか、そいういうのを一度置いて、より現象的に物事とやり取りすることが必要ではないだろうか。

「即興」と遊び

 

「なんか暇かも」と思った時に、友人から「今から遊ばね?」という連絡がくる。
それは、前々から遊びの予定を入れていた時より、なんだかずっと嬉しい。
もちろん、忙しい時に「今から遊ばね?」なんてきても少し腹立ってしまうくらいだし、忙しいのなら予定を組んだ方が確実に遊べるわけなんですが。

けれど、あの小さい頃、友達の家の外で「あそぼー」と大声で叫んでいた、あれくらいのカジュアルさがどうも恋しい。


これには即興的な良さがある気がする。
即興的だからこその良さだろうか。

構える隙すら与えない、より本能的な問い掛けに感じる。

逆に、1ヶ月も前から予定を決めていて、そのための準備もできて、なんとなく当日のイメージもしちゃって、少しずつ予定が近づくのを感じて、そういうのが重なってくると無意識にも型が仕上がってきてしまう。
そんな状態で「本能的に」なんて言われても、とっくの昔に本能は忘れてしまっているのだ。

 

とは言いつつ、即興とは一つ間違えれば人を傷つける暴力的な存在になりうる。
なにせ、予定のようにゆっくり変化するのではなく、一気にフルスロットルまで上げてくる。

しかし、だからこそ、この暴力的なテンションのアップダウンには強い力が働くように思う。

デザインされた即興は貴重で、とても価値があるのかもしれない。

「欠陥」と遊び

 

欠陥がある方がリアリティがある。

作り手としては、そういう欠陥部分というのは嫌ほどわかっちゃうし、だからこそ完璧を求めてしまいがちなんですけど、それを見る側というのは対して気にしていません。

それどころか、欠陥がある方が好まれる場合もあります。

人は欠陥部分を見つけると、どことなく嬉しそうにその部分を指摘していたりします。

それは、人は完璧なものに酔いしれるのと同じくらい、無邪気で楽しいことなのかもしれません。

 

欠陥があるというのは一種「身近さ」の演出です。

あの勇ましいライオンが、ずてっと転んだ様子を見るとほのぼのとするのは、「あぁ、ライオンも私みたいに失敗するところあるんだなぁ」と、今まで自分自身とは比べられないところにあった存在を、グッとこちら側に引き寄せて共鳴してしまうところにあると思います。

勝手に友達くらいの距離感になっているような感じすらあります。

しかし、戯れ合いをするのであれば、それくらいの立ち位置くらいでないと成り立たないわけですから、遊び的には正しいと言える気がします。

隙があるからこそ、その隙をプレイヤーが埋められるようになるわけで、自身で埋める時点で「身近さ」は生まれてしまうわけです。

 

だからと言って、なんでもかんでも欠陥があればいいわけではなくて、むしろ一定の完璧さがあるからこそ欠陥を認知できるわけですから、やっぱりわざわざ作るものではないのでしょう。

しかし、ただただ欠陥を埋めるばかりではなく、弱点を武器にするような考え方は持ってそんなはないでしょう。

「A4サイズに書き込む」と「A5サイズに書き込む」

 

なんか考える時とか、考えをまとめたいときによくA4コピー用紙を使うのですが、時々そのA4コピー用紙の「A4」というサイズに腹が立ってくる時があります。

以前、コピー用紙のあの「眩しく感じるほどの真っ白さ」が書き込む上で辛くなってしまうみたいなことをブログに書いた気がしますが、それと似たような話かもしれません。

そりゃあ、まあ、状況によって全然違うのですが、私にとって「A4」というサイズはどうやら大きいようなんです。

それがどうしたって思われるかもしれませんが、「書き込む」ということは「書き終える」必要があるわけでして、「書き終えた」時に紙の余白がたくさんあったら、ちょっと嫌なんです。

余白がある故に書き続けてしまったり、新しいことを書き込み始めてしまい、その1枚のメモの質が下がってしまうのではないかと。

以前に、それが嫌になってしまい、A4コピー用紙を半分に切って、A5サイズにして使っっていた時があります。

そのメモを最近、掃除の時に発掘されたのですが、結構よく感じたんですよね。
1枚1枚スパッと、書き込みすぎない程度でまとめられているような。
気のせいかもしれませんが、たったこれだけでももしかすると人は影響を受けているのかもしれませんね。