戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「遊び」の線引き

「遊びか、遊びじゃないか」の線引きというのは、曖昧でよくわからないというか、あんまりそこの線引きをすることに意味がないように思う。

だけれど、やっぱり「遊びっぽい、遊びっぽくない」というのはあるもので、じゃあこの「遊びっぽい」という事柄とはなんなのだろうか、そこを考えるのは大事ではあると思う。

それを考える上で「歌」と「BGM」の違いについて考えると少しわかりやすいだろうか。

この2つの違いというのは使われる用途とか、色々あるのだろうけど、遊び的にみるなら、重要なのは「歌詞があるか、ないか」という差だろう。

「歌詞がある」とどうなるのか。
それはシンプル「歌うことができる」ということだ。
もちろん、BGMも鼻歌でメロディをなぞることができるが、やはり歌の方がより具体的に、直接的に表現ができるだろう。

何が言いたいかというと、人と物事との間に接点があるか、ないか、ということが遊びにおいて重要ではないかと思う。
その接点から、人はそれに濃密に関わり合うことができる、いわば取っ手のようなものがあることで、人は初めてプレイヤーになれるのである。
つまり、「BGM」より「歌」の方が遊びっぽいのである。

面白いからそれが「遊び」となる。

それくらいシンプルに考えた方がやりやすいのだろうけど、だからと言って「面白い、面白くない」だけで遊びを語ろうなど、なんともちっぽけに思えてしまう。
そしてなにより、「面白い」という言葉が、時に恐ろしく脅迫的に感じてしまう時すらある。

人のどこの部分と、物事のどこの部分が、どのように繋がり合うのか。
その接点で人は何をすることができて、その結果どういったことが起きるのか。
そこの細い要素について考えていくことが、遊びへの理解には重要なのだろう。

もしかすると、「どうすれば面白くなるか」と考えるより、「どうすれば遊びになるか」と考えた方が、結果的に面白いものになるのではないかと思う。