「伝える」ということ
私はお粗末ながらも大学でデザインを学ばせていただいていた。
そんなデザインでは、よく「伝える」という言葉が出てくる。
どうすれば自分の考えや、やっていることを相手に伝えられるのか。
制作だけでなく、完成品のプレゼンをするや、資料で図や文章でまとめるときも、よく考えさせられる事柄である。
しかし、面白いもので、「伝えよう、伝えよう」と思えば思う程、どうも相手に届かなくなる印象がある。
そもそも「伝える」という考え方自体、あまり面白くないのかもしれない。
というか、難しいのである。
これは私だけのイメージなのかもしれないが、「伝える」と意識すると、自分とういう点と、相手という点を、情報を積み上げていくことで一本の線で繋げるようなイメージを持つ。
ともかく、「伝える」と言うからには「相手」というのがいるわけだが、この「相手」というのは底知れぬよくわからない存在である。
ただでさえ、自分の事柄でさえ不安定だというのに、それを更に相手という不確定要素に結びつけようとするのだから、かなり無謀なことをしているのかも知れない。
おまけに、ようやく繋がって伝わったとして、それは最低条件であり、結局は内容が重要なわけであるし。
私思うに、こういうのも"遊び"の考え方がいるのだと思う。
結局、相手にとってしっくりくる伝え方をするには、相手が相手なりの納得する形で、相手から伝わりに行く必要があるのだろう。
いわゆる、相手のことは相手が一番わかっているのだから、そこは相手に任せるべきということ。
役割分担。
つまり、発信者がしなければならないのは、相手に対して必死にアプローチを考え、積み上げることではなく、自分の中で要素を広げ、その要素を繋げる様子を見せることなのではないかと思う。
そういう「演出」が大事なのかもしれない。
相手に伝えるんじゃない、自分の庭の中だけで組み立てること、発信する点を豊に広げること。
その様子を見せ、相手が興味を持ったら、そこからは相手に委ねてしまう。
この「委ねる」という感覚も、とても大事なように思う。
「こうなんだ!」ではなく、「好きにしていいよ」と自分が広げたものをポイッと自分のものでなくしてしまう、そういう潔さ。
それが「ものづくり」ってもんだし、そうすることで相手は自分の都合のいいように繋ぎ合わせることができて、結果的に「伝わる」のである。
そう、「伝わる」というのは、結果的に起きることなんじゃないかと。
「伝える」ことを意識しすぎると、「相手」を意識してしまう。
「相手」を意識すると、「自分の中で組み立てる」ということと「相手にポイッと委ねる」というのが疎かになってしまう。
「伝えたい」と思う程、伝えることはもはや忘れてしまうくらいがいいのかも知れない。
Youtubeなんか観てると特にもうけど、結局一番面白いのは画面の中で思いっきり楽しんでいる人たちで、その人たちに惹かれて視聴者は勝手に受信できるように自分のチャンネルを広げてるんじゃないかなあ。
そういう考え方の方が、個人的にはやりやすい。