戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

カードという物体

思えばカードというのは何か魅力的な物体だ。

トランプとか、カードゲームとか、その遊びの内容はともかく、あのカードのフォルムが美しく、何か興奮する。

なんだったら名刺とかも好きだ。

名刺の中身のデザインどうこうより、カードというだけで何かカッコよく見える。

クレジットカードとかもそう。
子供の頃、何かとても憧れていた。

また、手に持った時のドシっと構えた面と、逆に鋭利な縁の二方向の感触も気持ちがいい。

トランプを扇のように広げて持つのもかっこいいし、カードをシャッフルする感触や、カードをめくる時の音なんかもいい。

並べてみても、重ねてみても、何をやっても様になる、そんな素晴らしいフォルムがカードなのかもしれない。

 

最近の世の中は便利になり、ありとあらゆるものが電子化されていき、形をなくしていっているからこそ、カードのようなはっきりと存在し、感触のある形がよりありがたく感じる。

物体というのは安心する。

それ以上でもそれ以下でもない、そこに存在することで全てを完結されている。

例え不安になっても、それを触ることで「そこにある」ということを実感できる。

昔にとっては当たり前だが、今の時代にとっては特別なものになりつつあるのかもしれない。

 

別に電子化されることが悪いことではない。

しかし、電子化されたものと、感触のある物体とはやはり違う。

この「違い」というのは、絶対に見逃してはならない要点だと思う。

私はコンピューターゲームが大好きだが、だからこそ、もう少し「コンピューターである」こと、「ボードゲームのような形あるものではない」ということを忘れないで欲しいと思う。

電子化されたものは、電子化しているからこそ表現できるものがあり、物体かされたものは、物体化しているからこそ表現できるものがある。

それを作り手が忘れてしまっては、それを受け取る遊び手とのズレは決して埋まることはないだろう。

 

カードについて書こうと思っていたら、何か違う話になってしまった。
いや、違わないんだけど。

正直、カードについては、かなり大きなテーマだから、いくつかに分けてゆっくり考えていきたい。