どうぶつの森、あれこれ
唐突ですが、任天堂のゲームの「どうぶつの森シリーズ」、あのゲーム大好きですね。
今の最新作だとSWITCHの「あつまれ どうぶつの森」が有名ですが、個人的にはゲームキューブの頃のどうぶつの森の空気感も好きですねぇ。
あの頃の住民は本当に癖があって、言ってしまえばなかなかに酷いことを言ってきたり、してきたりするんですよね。
でも、そういったプレイヤーにとって都合関係なしに絡んでくるのが妙にリアルで、本当の友達のような感覚になってくるんです。
あの頃のどうぶつの森は今のどうぶつの森に比べて、本当にやれることは少ないのですが、ただあの村を駆け回るだけで楽しかったなぁ。
当時はなんも思わなかったけど、今となっては、あのポイっとなんもない村に投げ込まれたような感覚、何にも追われていない感じ、それは本当に「村」って感じ。
それは、現実にはない、まさしくゲームだから味わえる空間であった。
「あつもり」も楽しいけど、時々昔のどうぶつの森にも出かけたくなる。
それと、どうぶつの森の住民って、猫とか犬とかの動物なの、いいですよね。
あれが、人だったら、なんか気持ちよく遊べなかったかもしれない。
あの村に「人」が現れると現実とリンクし過ぎちゃうというか、その住民たちの言葉が現実での事柄の基準の元、捉えてしまうような。
うまく説明できないけど、キャラクターが人だったら、人でしかないのだ。
そしたらそれ以上でも、それ以下でもなくなってしまい、現実と変わらずそのままスーッと過ぎ去ってしまう。
しかし、これが人っぽい動物という見た事もない存在だと、現実の当たり前を当てはめることができなくなる。
そして、キャラクターに対してわからない・よくわからない部分がはっきり生まれる事で、プレイヤーに対して揺さぶりをかけることができる。
そこにフィクション・ファンタジーがあるからこそ、プレイヤーは立ち止まり、当たり前を肩から下ろして純粋にそれらと向き合える。
そうすると、「当たり前」の脳味噌になっている状態では気づけないところに反応できるようになり、その気づきというのが「あ、面白い」に繋がる。
「新しい」という状況下が、フラットに、ピュアに物事と向き合えるチャンスを与えてくれている。
実際、どうぶつの森の住民の会話というのは、本当にくだらないことや、大したことない日常会話のようなものだが、それをまじまじと聞いてみると面白いものなのである。
また別の角度から考えるとして、住民が「どうぶつ」であることで、ダイナミックにキャラクターを表現できるというのも強みである。
大きかったり、小さかったり。
可愛かったり、カッコよかったり。
怖かったり、可憐だったり。
そういった内面的な要素を、色々な動物に当てはめることで、表面的に、わかりやすく形作ることができる。
人でもない、動物でもない、人っぽい動物の住民。
これはある意味、「人」と「動物」のいいとこ取りをしたデザインなのかもしれない。