もし、ゲームしている後ろで誰かが見ていたら
「遊び」というのは、夢中で遊んでいる時は、もはやそれが遊びであるかとかプレイヤーは認知していない。
逆に、それが遊びであると強調されると、むしろ遊びではなくなったりする。
例えば、私が大好きなコンピューターゲームをしている。
そこに、後ろから知らない人がたくさん見ていたら、恐らく気が気でなくなると思う。
そもそも、知らない人が後ろにいたら怖いが、それは置いといて、そこに観客ができるだけで、たとえ大好きなものでも気持ちよく遊べなくなったりする。
(中には気にしない人も、むしろ楽しくなる人もいるのだろうけど)
不思議なもので、観客がいるということを知るだけで、自分を客観的に捉えてしまう。
客観的に自分を捉えることは、社会的には良いとされているが、遊びの世界ではそうとは限らない。
遊びとは、自己と対象との純粋な戯れ。
そして、それを繋ぐフィクションのような、特別な遊戯空間によってなり立っている。
ママゴトをしていて、それに「嘘の家事をやっていてどうすんの?」とマジレスされたら興醒めはなはだしいだろう。
それなら、スマートフォンゲームだって、よく考えればただ嘘の絵に感けて、画面をタプタプしてるだけであるし。
それが嘘であることはわかっている。
わかった上で、その世界に浸るのである。
そこでの繋がり、そこで生まれる感情の動きは嘘でもない、ただの現実である。
そもそも、ママゴトでは別に家事がしたいわけではない。
ママゴトは家事という現実の動きを利用した、オリジナルの空間であるのが正しい。
ママゴトと家事は全くの別物である。
一種、遊びをしている時、人は精神を身体から置き去りにして、そのフィクションの世界に飛び込んでいる。
しかし、そこに客観性が入っていると、現実に身体を残してトリップしている自己を認知してしまい、飛び立ったフィクションから現実に引きずり戻されてしまう。
遊びを台無しにされるのだ。
このことは遊びが何かということについて、一つ重要なポイントのように思う。