戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

遊びにおける「違和感」



「違和感」って、遊びにおいて大切なんじゃないかと思う。

「違和感」というと、どちらかというとマイナスなイメージのある言葉に思うのだけど、じゃあ全く違和感がない状態ってどうなんだろうと思う。

 

例えば、「字を書く」として、使っているペンに対して「違和感」を感じるのは腹が立つと思う。

それは、「字を書く」ことが目的なので、それを補助するための道具、いわゆる脇役がでしゃばってきたら嫌なわけだ。

便利さを追求する道具には、「違和感」は不必要で、いかにこの「違和感」を消せるかが重要視されるのだろう。

 

では、遊びではどうか。

遊びのデザインでも違和感消しという作業はあるだろう。

というか、ほとんどがそういう作業かもしれない。

しかし、だがしかし、全部の違和感を消してしまってはならないように思う。

遊びにおいて、「違和感」こそ主役なのではないかと。

違う風にいうなら、主役の部分をあえて「違和感」になるように仕立てあげる、そういう風に演出すると言っていいのかもしれない。

 

なんだったら、遊びは唯一、この「違和感」というのを主役にして扱えるものなのかもしれない。
そして、それが遊びの強みなのではないか。

「面白いものを考える」となると、どういう風に考えていけばわからなくなるが、いわば「違和感を肯定してしまう」という感じ考えてもいいのかもしれない。

それは「違和感」を消すのではない。

「違和感」に対してプレイヤーが向き合える状況を整えるのである。

 

ただ違和感のない気持ちの良いゲームを作っても、気持ちがいいだけで、スーッと流れてしまい、プレイヤーの心に残らないこともある。

結局、プレイヤーが興味を持ち、心に残ってくるのは遊びの中の「違和感」だ。

「違和感」を恐れてはいけない。

むしろ愛することこそ遊び。

私はそう考えるのだが、どうだろうか。