ブランコ、あれこれ
私は公園の遊具の中でもブランコが好きだな。
今となっては、ブランコに乗るのも恥ずかしい年になってしまったが、時々人気がない公園を見つけてしまうと、ついついブランコにまたがってしまう。
ブランコに揺られる感覚は、なかなか日常生活で味わうことができない。
いや、恐らくいきなりあの浮遊感に襲われたら、恐ろしいだろう。
ブランコというのは、そういった普段は味わいたくない「不安定感」を肯定してくれる遊具だ。
その「不安定感」を味わうために、自らブランコにまたがり、自らブランコ漕ぎ、不安定感を作る。
人は基本的に安定を求めるだろう。
しかし、ずーっと地面に立ち、安定し続けていると、もはや安定感というのを認知できなくなってくる。
自分の足元にくっついている地面を感じられなくなる。
そんな時、あえて不安定感を味わいたくなる。
ブランコに気ままに揺られている時も面白いが、その揺れを止め、また地面に降り立つ時、改めて地面をしみじみと感じる。
ドラマとかで人がしょげている時、そんな時にブランコにまたがっている光景が様になる。
まるで、自らをあやすかのように、ゆっくりと揺らす。
そういえば、私が大学生の頃、大事な課題で落ちてしまった時、溢れるばかりの心を抑えられず公園のブランコにまたがったのを思い出した。
あれはなんなのだろうか。
足を離し、相手に委ねる。
大袈裟にいえば宇宙に放り投げられたような感覚。
体と心を揺さぶって、散らばった何かを下へ下へと集めているような。
それで結局諦めて、地面に降り立ち、とぼとぼと地面を感じながら帰るのである。
なんとも言えない、寂しいストーリー。
そんなストーリーが、公園という身近な場所にあるのが面白いものだ。
ブランコはひとりぼっちの象徴。
自らで自らを慰める、孤独の遊具。
シーソーの相手がいなくとも、砂場で一緒に山を積み上げる仲間がいなくとも、1人漕ぐことで前に進まなくとも、その揺れを味わうことで1人というのを噛み締めることはできる。
孤独は寂しいけど、やっぱりそういう時だってあるものだ。
寂しい時は、寂しい時なりの遊び方があるものだ。
無理に盛り上げるより良いと思う。