遊び作りとは、滑走路作り
遊び作りとは、滑走路作りなのではないかと、ふと思った。
というのも、私は遊びを作っていく中で、プレイヤーへの最後のイメージとして「放り投げる」というのがある。
丹念に遊びを練り固めていって、整えて、壊れないように補強して、スパイスを加えて…で、最後に一番大切なところが、作った遊びがしっかり作り手の手から離れて、「後はお好きに飛んでちゃって」と送り出すという。
むしろ、ある意味、遊び手が好き勝手にやれるようにわざと「ほころび」を残すような、そんなイメージすらある。
もちろんただ「好きにやって、どうぞ」と言われても、プレイヤーは困ってしまうわけだから、だからこそ遊び作り、いわゆる滑走路が必要なのである。
滑走路さえあれば、とりあえずそこに添うことで、おのずと飛び方のイメージを享受することができる。
そこから、飛行機が離陸できるまでのスピードになるまで、遊びが補う。
そこまでいったらもう問題ないのである。
どんな感じに飛んでいくのか、どこへ飛んでいくのか、それは遊び作りの段階で作り手はイメージするべきなんだろうけど、でも実際に飛んだらもう後は自由に気持ちよく飛べるよう見届けるしかない。
例え、それが作り手の想像だにしない飛び方であっても、それは別に構わない。
むしろ、滑走路を経て、今度はプレイヤーが自由に航路を決める番だ。
そこが、遊びの素晴らしさだ。
作り手にとっての遊びの本質は、滑走路であるが、
遊び手にとっての遊びの本質は、飛び立った後だろう。
この違いは忘れてはならないように思う。
最近の遊びは、どうもこの滑走路は永遠と引いているイメージがある。
他にも、色んな遊び方に合わせて、いろんな滑走路を律儀に全部用意してあげるような。
それが悪いとは言わないが、そういう作り方をすると、遊び手はなかなか飛び立てなくなる。
作り手が用意してくれた道をプレイヤーはただ走るだけで、足りなくなったら作り手がすぐさま道を足してしまう。
プレイヤーも納得がいかない道だったら、滑走路に文句を言う。
これでは、遊び手も作り手もしんどくないかと思う。
プレイヤー、一人一人遊び方や感じ方は違う。
遊びでは、その個人の違いをそのまま遊びで昇華できるのが素晴らしさだ。
しかし、その個人差に作り手が付き合ってしまったら、時間がいくらあっても作りきれないし、遊び手も本当の満足は得られないだろう。
だからこそ、最後は飛び立ってもらわないと。
遊びの面白さは、作り手と遊び手のコラボレーションだ。
このコラボレーションによって、1人では到達できない大空へ飛び立つことができる。
これが本当の意味でのプレイヤーに寄り添った遊び作りだと、私は思う。