戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「面白そう」と「面白い」

 

「面白い」と「面白そう」は違う。

両者はかなり密接に絡んでいるが、やっぱり違う。

 

基本的に「面白そう」が先に来て、その後に「面白い」もしくは「面白くない」がくる。

「あ〜、面白そうだなぁ」と思いつつ、結局やらないで終わる時もある。

また、やっていく中で「あれ、これ面白いじゃん」という、一気に「面白い」に直接繋がることもある。

もしくは「面白そう」と「面白い」がほぼ同時にやってくると言えばいいのだろうか。

料理で例えると「美味しそう」と「美味しい」である。

こう例えた方がしっくりくるだろうか。

 

「面白そう」とは、いわゆる予測である。

それを見て、もしくは説明されて、とにかく何かしらで情報をプレイヤーがインプットし、それらからイメージを組み立て、そのイメージ上でもはや一度遊んでしまう。

そして、そこで理解し、納得し、より一層その対象に興味を持つ、その先やそれ以上のイメージを求めた時、「面白そう」「やってみたい」と強く思うのであろうか。

あー、そう思うと「面白そう」と「やってみたい」というのも、また少し違う気がするな…。

まあ、それは今回は一度置いておこう。

 

確かに、目の前に料理を出され、それを「美味しそう!」と思った時、私はその料理の見た目や匂いから、曖昧ながら頭の中でその料理を作り上げ、それを一度頭の中の食べているイメージをしている気がする…気がする。

そして、そのイメージの中での試食で「美味しい!」と言っている自分が浮かんだ時、「これは美味しそう」と、そんなそんな周りくどい事を瞬間的にやってしまっているような気がする。

 

つまり、別にそれが「面白い」ではなくても、「面白そう」と思わすことはできるのである。

いわゆる「面白そう」とは、一種プレイヤーと遊びとの表面的なコミュニケーションだ。

コミュニケーションというか、遊び側がプレイヤー側に「伝える」のである。

「伝える」の方法は色々ある。

しかし、どの方法であろうと一番大切なのは、上記で書いた「頭の中でイメージし、そこで実際にそれが一度行われる」、そして、そこで生まれるストーリーがプレイヤーを納得、満足させるものであるか、というところではないだろうか。

「伝える」と言われると、どうも「情報を渡すこと」ばかり考えてしまうが、そうではない。

どの情報を、どのように渡すか、それによって受け取った側がどのように情報を組み立ててイメージし、実際に頭の中で動かすか、いわゆる一種の「ストーリー」を想定する事の方が大切なように思う。

紡ぎたい脳内ストーリーがはっきりしていれば、おのずと何をどのように発信すればいいかわかる。

 

「面白そう」と思ってもらうことは、遊びにおいて大切なことだ。

いわば一種の「おもてなし」。

プレイヤーをエスコートし、遊びの入り口まで案内すること。

また、「面白そう」という、プレイヤーの前のめり姿勢そのもの自体に価値がある。

遊びは、それ単体では成り立たない。

そこにプレイヤーが介入し、プレイヤー自身が遊びに寄り添い、自らが演出を担当することで遊びは莫大に盛り上がる。

逆にいくら「面白い」があっても、プレイヤーの「面白そう」の姿勢がないとなかなか気付いてもらえなくなる。

結局はどっちも重要なのである。

 

「面白そう」とは想像の中の物語。

地上戦における、航空戦力、みたいな。
制空権は取りたいものである。