戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「嘘つき」の輝き

 

なにか変な話だが、「嘘をつく」って結構大事なんじゃないかと思う。

 

「嘘をつく」というのは、基本的には悪い行為とされる。

私の冷蔵庫の中のプリンを勝手に食べておいて、それを別の誰かがやったと「嘘をつく」。

つかれた方はたまったもんじゃない。

平穏な日常が、しょもない嘘によって揺さぶられ、崩される。

それなのに、嘘をついた方の人間は、そんなこと知らん顔でのうのうと日常に戻るもんだから、恐ろしいもんだ。

皆んなが皆んな、嘘をつき出したら、コミュニケーションもクソもなくなってしまう。

相手が嘘をつくか、つかないか、そういった疑いの目を持ちながらの駆け引きをもうウンザリだ。

 

しかし、逆に考えると「嘘」とは、ものすごい力を持っているようにも思う。

なにか現実の行き詰まりを、コロッとひっくり返すような、そういう「壊す」力があるとも言えるのかもしれない。

それ故に悪用されるのだが。

「嘘をつける」というのは、一種、柔軟的で、それでいて理にかなっていて、ユニークさもいる。

それは、淡々と作業を無心で取り組んでいるだけでは、辿りつけない局地でもある。

この「嘘を考える」ときの脳味噌の動かし方は、結構面白く、魅力的である。

ピンチに陥った時、急速に頭を回転させて、あらゆる情報を立ち上げ、それをくっつけて、一瞬で筋の通った嘘を考えている自分は愚かなのだろうが、激しい銃撃の中突破口を切り開く、1人の戦士のような高揚感もあったりする。

 

結局は、嘘も包丁と同じで、その研いだ包丁をなにに使うかで、その人の質が決まる。

真実にしろ、嘘にしろ、なんにしろ、その発言によって他者をコントロールしようとすること自体というのが、非常に浅ましいのである。

そういう意味では、時に嘘つくより、真実に溺れている人の方が怖い時がある。

「それって嘘ですよね?」と言われると、「いや、そうなんだけど…そう言ってしまったら終わりじゃない?」と思う時がある。

人を傷つけないものなら、もうちょっと嘘について、面白がってもいいんじゃないかな。

 

なにか「真実」というものに、絶対的なものを置かない方がいいと思う。

そういう状態の人と話すと、なんか腹が立ってくる時がある。

どうも、真実を必死に集めて、自分の地位を確立させて、それでやたら威張っている。

真実自体はすごいけど、真実を語るだけではどうしようもないのである。

それなら、どんなしょうもないものも、一つの嘘の昇華させてしまう人の方がすごい時がある。

そういう意味では、私は嘘自体の輝きというのは、真実以上に大好きなのかもしれない。

 

なんでか知らないが、真面目に勉強をしている子より、イタズラを考えている子の方が活き活きしてるもんだ。

もう少し、嘘というのもを善悪とか、利便性だけで考えるのではなく、嘘自体を愛せるかというのは、人にとってけっこう重要なのかもしれません。