戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

マーキングという遊び

 

昔、散歩が自分の中でブームになっていた時があった。

しかし、毎日同じ道を歩くのも少し味気なく、色々な道筋を開拓したものです。

 

そんなある日、何気なく道端にあった石ころを拾い、それを何気なく電柱近くに置きました。

それから数日が経って、また同じ道を歩くと、その電柱近くに置いた石ころがそのままあった。

雨風に打たれ、拾った時より泥が取れて綺麗になっているように見えた。

これが面白くなって、一時期、色んなところで石ころを拾い、それを散歩コースに置き回っていた。

 

なんの変哲もなかった散歩道が、石ころという「印」によって飾られていく。

その「印」によって、まるで自分の地図を作るのように、散歩道がはっきり浮かび上がり、彩られていく感覚があった。

なんでしょう、ただの道だったものが、まるで自分の部屋のように、それくらい身近に感じた。

ただの電柱がある場所が、「黒っぽくて、ゴツゴツした石を置いた所」になるのである。

自分にとって都合がいい目標を作ることで、自分のフワッとした思考にも、「印」のようにはっきりと現れてくる。

中には、置いた場所からなくなった石ころもあった。

そうすると、ただの散歩道にたいして、「あ〜なくなってる!」という感情ば芽生えたりする。

「気づき」が生まれやすくなる。

何も「印」をつけていなければ、こんな感情は生まれることなく、スーッと過ぎ去ってしまうものである。

「印をつけていく」ことで、赤の他人くらいの距離感だったものが、「よっ!」と言い合えるくらいの友達くらいまで縮まる。

たった、石ころを添える程度の、そんくらいの「印」だけで。

 

この動きって、思えば犬の散歩のマーキングみたいだなと。

もしかすると、犬も「おしっこ」という「印」をつけることで、意外と「あっ、他の奴がおしっこしてるやんけ笑」みたいな感じで楽しんでいるのかもしれない。

 

また、この「印」には「巡回」という要素も必要になってくる。

逆に、「巡回」のような何度も繰り返す作業に対して、不満を持っている人は、この「印をつける」だけで、面白くなるかもしれない。

ポイントは「印をただつけるだけ」ということ。

変に「印」自体に意味を込めるすぎると、「印」が機能しなくなる。
また、本当に大切なのは、「印」ではなく、「つける」という能動的な行為自体。

「つけてもらう」では弱い。

「印」の意味は、再び「印」と出会ったときに、おのずと浮かび上がる。

 

よくよく考えれば、1日だって繰り返しのようなもの。

そこに「印」をつけていくことで、なんとなくだった1日に対して、しっかりと踏み締めることができるかもしれない。