戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

カメラは向けたくないが、写真は撮りたい

 

私はあんまり写真が得意じゃない。

虹とか、花火とか、久しぶりの友達とか、そういうの今の時代ってスマホっている便利なものがあるから、そのスマホで皆んなパシャパシャ撮っているけど、あれがどうも得意じゃない。

写真で撮りたくなるくらい素敵なものがあるのなら、それにカメラを向けるより、この目で、この空間を、この時間を味わい尽くしたい。

そこにスッとカメラを向けようとすると、その素敵なものから離れてしまうような、そんなもどかしさを感じてしまう。

 

しかし、とあるスマホで写真をパシャパシャ撮っている友人の写真アルバムを見せたもらった時、そのアルバムは本当に面白い瞬間に溢れていた。

それを一枚一枚見返しながら、友人は「あ〜これはね〜」と楽しそうに思い返しながら話してくれた。

ふと、自分のアルバムを覗くと、なーんにも残ってなくて、ちょっと寂しくなってしまった。

私はその友人ほど、嬉しかったこと、感動したこと、驚いたことを形にしてこなかったらから、その友人みたいにあんまり具体的にエピソードが蘇ってこない。

なんか勝手に写真に対して苦手意識があったが、写真とは何か、少しわかった気がする。

 

少し話はそれるが、私はよくゲーム機のNintendo Switchで遊んでいるのですが、最近のゲームはすごいですね、ボタン一つでパシャリとその瞬間の画面をスクショすることができるんです。

ゲーム内で起こった、嬉しいこと、感動したこと、驚いたことを、ボタン一つで簡単に残すことができます。

これのいいところはですね〜「カメラを構えなくていい」ということです。

「ゲームをする」と「写真を撮る」の間に、動きも画面も境目がほとんどありませんから、「ゲームをする」という本筋を邪魔することなく「写真を撮る」ことができます。

「ゲームをする」という過程も、やはり形にあまり残らず流れていってしまいますが、こうして写真でその瞬間の思い出が色あせないまま残せるというのは、昔ではできなかった遊び方だなぁと思います。

何気なくダラダラ遊んだ記憶も、こうして写真に撮るとものすごく尊かったことを気づかせてくれます。

 

そう思うと、現実でもゲーム機みたいに何も構えずパシャって撮れたらいいのにな、なんて。

こんなこと言うと失礼なのかもしれませんが、カメラという物体がちょっと邪魔なのかもしれない。

カメラ越しになってしまうとか、その空間にカメラを構えた人がいるとか、そういう違和感が取っ払えたら、私ももっと写真と仲良くやっていけるかもしれない。

いや、それはそれで味気ないかもなぁ…。