戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「宝物」はちゃんとしまっておきましょう

 

「宝物」というのは持ち歩かず、どこかに隠しておくものだ。
それは宝石のような目に見える物体のことだけでなく、心の中に持つような無形のものにも言えるのかもしれない。

 

私はあまり物とかに執着がなく、そういうもので「宝物」のように大切にしているものはない。
しかし、逆に自分の中には、猛烈に大切にしている何かがあると、日々ひしひしと感じている。

それは考えなのか、プレイドなのか、こだわりなのか、好みなのか、思想なのか。

それが何者なのか、いまいちよくわからない。

これが無形物の都合の悪いところだ。

 

なんであれ「宝物」があるということは悪いことではない。

しかし、この「宝物」の運用方法を間違えると、結構痛い目に合うようにも思う。

特に無形のものだと、目に見えないもんだから余計やらかしやすい。

 

「宝物」はそう簡単に易々と他人には見せない。

傷つけられたら困るし、だからこそ見せるとしても信用ができる人くらいだろう。

そもそも、「宝物」は人に見せるために持つ物ではない。

いや、お金のためとか、そういう人もいるだろうけど、ここではそういうのは考えないでおこう。

見せないのになんで持つのか。

恐らく「持っている」ということ自体に価値がある。

そしてそれを「大切にしたい」と思っているこの想い自体に価値がある。

物体的な「宝物」には、もはや印としての意味にすぎないのかもしれない。

 

また、私は「宝物」は自己管理する物だと思う。

大切にしまっておいて、時々取り出して手入れして、またしまう。

基本的にはこれは他人にはやらせられないことだろう。

これを他人にやらせてしまったら、「持っている」という自覚も、「大切にしたい」という想いも、なくなってしまう。

 

私は一時期、この自分の中にある「宝物」をなんとか周りの人たちに認めさせたいと、頑張ろうとしていた。

私にとってこの「宝物」は武器になると、いや武器になって欲しかった。

しかし、やればやるほど大切にしていた「宝物」は傷つき、ただ悲しくなるばかり。

皆んなにわかってもらえるように言語化して、綺麗にまとめて、プレゼンして、もしそれが伝わったとしても、そこにもはや「宝物」の価値はなくなっていたように思う。

 

「宝物」くらい、他人に理解してもらう必要ないんじゃないかなぁ。

だからこそ、他人に迷惑かけないようにしまっておくもんだし。

「宝物」に対して不安になったら、それを他人の「いいね!」で肯定させるのではなく、ちゃんと取り出して、改めてまじまじと向き合って整備すればいい。

「宝物」を表に出して持って動いていたら、それはただの「重り」にしかならない。

だからこそ、しまって、離れて、めいいっぱい暴れればいい。

そこの切り替えは、無形物だとわかりにくが、ちゃんと意識的に切り分けてやるべきだろう。

さもなければ、大切な「宝物」のせいで撃沈することになる。

逆に正しく運用すると、「宝物」をちゃんと持っている人は、とても強いし、幸せにだと思う。