戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

遊びにおける「プレイヤー」と「観客」

 

「遊び」における遊び手の在り方は、大きく分けて2つあると考えている。

1つは「プレイヤー」。

もう1つは「観客」だ。

 

一般的に「遊び」というと「プレイヤー」という言葉が似合っているが、「観客」だって楽しんでいるのだから「遊び」と言えるのではないだろうか。

これは「遊び」という言葉をどれくらい広く捉えるかで変わってくるのかもしれないが、個人的には大きな「遊び」の括りにしてしまって問題ないと思う。

しかし、「プレイヤー」と「観客」では、遊びの内容としては大きく違っている、このことは極めて重要であると思う。

 

ざっくり簡単に分けてしまえば、「プレイヤー」は能動的な遊びで、「観客」が受動的な遊びだろうか。

「プレイヤー」の方がより濃密的・直接的に戯れられるのが強みであり、「観客」は間接的だからこそ気軽に遊びを展開することができる。

 

いや、最も重要なのは「遊び」に対しての「立ち位置」だろうか。

「プレイヤー」は遊びの中に入り込み、その中で遊ぶ。

「観客」は遊びの外側から、その様子を眺める。

 

「観客」というのは現実という空間に居続けながら、その「遊び」という1つのフィクション・ファンタジーを間接的に味わう。

ある意味、それくらい遠くから眺めている方が、よく周りが見えて、「遊び」というのを味わい尽くせるのかもしれない。

「私はそこには干渉しない」という切り離しが、もはや清々しくて良い。

 

「プレイヤー」は逆に、遊び空間に広がっているフィクション・ファンタジーをもう1つのリアルとして捉え、そのもう1つのリアルに適応していく必要がある。

実は「プレイヤー」より「遊び」の方が地位が高い。

確かにそれで遊びたいから「プレイヤー」になるのだが、「遊び」が始まると主導権自体は「遊び」側にある。

「遊び」が主導権のもと、その中で「プレイヤー」は最大限に遊ぶのである。

この主導権が「プレイヤー」になってしまったら、それはもはや「遊び」の崩壊である。

 

一種、「遊び」は「プレイヤー」がいないと成り立たない。

それは「プレイヤー」が「遊び」におけるギミック、歯車、部品になること。

「観客」はいてもいなくても、一応は「遊び」は成り立つ。

「観客」は、その観る対象である「遊び」とは無関係だからこそ、「プレイヤー」に課せられる役割という重りを脱ぎ捨て、より自由に嗜むことができるとも言えるかもしれない。

 

また、「プレイヤー」には「観客」の視点、「観客」には「プレイヤー」の視点が入ることで、そこでの遊びがより楽しめるようになる。

自分がどの立ち位置なのか把握して、そこを補うように遊びを工夫するといいのでしょうね。