一時期カラオケにハマっていた。
微妙な間柄の友達と行くカラオケはむしろ辛いのだが、そんなの気にしない親しき友人と2人でただただ歌いまくるカラオケは最高であった。
元々、いや今もだが、音楽自体にあまり興味がなく、だからカラオケも行きたいなんて思ってもいなかった。
しかし、友人に誘われ渋々やってみると、あの個室でなーんにも気にせず歌いたい曲を歌えることに感動してしまった。
前は時間も気にせず楽しみまくっていたが、流石に今は厳しいな…、体力的にも、時間的にも。
さて、あのカラオケという遊びが成り立つのは、カラオケの機械というより、あの社会から隔離された「個室」が重要だろう。
もし、カラオケの機械が道端のど真ん中にあったら、周りが気になって思う存分歌うことはできない。
それに、大声を出すというのは、周りで平穏に日常を過ごしている人たちにとって、あまりにも鬱陶しすぎる。
遊びを成立させる上で、この「隔離性」は非常に重要になってくるということだ。
「大きな声で歌を歌う」という行為を、遊び手が純粋無垢に向き合えるように、それらに影響を与える外環境を遮断してしまう。
また、その遊びが社会的に認めてもらうためにも、外環境に悪影響を与えないという意味でも隔離性は必要になってくる。
カラオケではわかりやすく物質的に隔離を体現しているが、この隔離は形を変えて、なんなら形がなくとも行うことができる。
また、カラオケでは「音」という隔離が難しい要素を扱うからこそ、空間的にしっかりとした隔離が必要となる。
「視覚情報」はその間に一枚の隔たりの面を置くだけで遮断できるが、「音」はそうはいかない。
扱う要素によって隔離の仕方が変わってくるわけだ。
そう思うと、「音」というのは遊びにおいて結構扱いにくいものだよなと。
また、遊びというのは隔離の前提のもと動くのであれば、「隔離しやすい要素」というのが遊びとして展開しやすいとも言える。
逆に言うと、「隔離しにくい要素」というのは、もはや隔離するだけでそれが遊びになってしまうことすらあるのではないだろうか。
二次元の可愛いキャラクターが画面から出てこないことを悲しむ人たちもいるが、マジレスになってしまうが、画面という中に隔離されているからこそ、そのキャラクターに思う存分向き合うことができ、愛でることができるとも言える。
今日では、インターネットやSNSの普及により、隔離より拡散性の方に執着を感じる。
だからこそ、そういう時代こそ隔離性を大切にしていきたい。
隔離が完成されているからこそ、そこから拡散が生まれるものである。
焦っちゃダメだ。
カラオケの個室の中での歌は、誰のためでもない、自分自身のために歌うのである。
そうして、音楽の授業で歌うのが辛かった人も、「歌うって面白いんだぁ」と気づけたりするもんだ。