戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「あなたの思うブラック(企業)とはなんですか?」

 

「あなたの思うブラックとはなんですか?」
友人たちとそんな話になった。

いざ、こうしてまじまじと訊かれてしまうとドキッとしてしまう。
世の中、なんとなく会社に対してブラックorホワイトと判断をしているが、確かにそこの線引きとはなんなのか、考えてみるとよくわからなくなる。
しかし、ここでは「あなたの」という、個人的な主観の判断基準を尋ねられているわけだから、難しく考えずに感覚的に書き出してみようと思った次第。

 

 

人がわざわざ会社に入り、仕事をしているには理由がある。
それも1つじゃなくて、色々な理由の総合であって、それら理由の優先順位は個人によって違う。
しかし、それと同時に、特に理由もなく「なんとなく」そこで働いているという感覚もあるのではないだろうか。
恐らくだが、多少なりともこの「なんとなく」という曖昧な感覚がなければ、人はそこで気持ちよく働くことはできない。
目的をはっきり持つことはいいが、だからといって、それにベストな会社を全世界を見回ってから決めることはできない。
できたとしても、その多大な労力と時間に見合った価値はないだろう。
最後の最後は「ここでいいや」という、何か諦めというか、それに一度納得してみる。
その許容がなければ、もはやブラックorホワイトのスタート地点にすら立てない。

私(働く人)を船、会社を川と例えてみる。
私が理想とする川というのはそう簡単には見つからない、というかないというが現実だろう。
だから、とりあえず私の近くにある川に乗っかってみる。
乗っかってみないと始まらない。
しかし、その川の流れが、自分の行きたい方向と逆向きだったらどうなるのか。
それは、川に乗っかるのではなく、抗わなければなくなる。
私にとってこの「抗う」というのは余計な労力なのである。
もちろん「抗う」ことも1つの学びになることは間違いない。
しかし、流れに抗っている人と、流れに乗れている人、この両者が戦うと、結局余計な力を全てプラスの方に使える「流れに乗れている人」が勝のである。

 

そうは言っても、なかなか自分が行きたい方向がはっきりわかっている人の方が少ないものだ。
だが、別に方向がはっきりわかっていなくても、「あ、この方向は嫌だな」というのは多少わかるもんだ。
というか、この感覚というのを磨くのが学びというものだから、まずはそこから向き合わないと、となるのだが。


しかし、もはやその感覚対しても向き合いたいくない、思考を放棄した人たちは、どんな川だろうと流れに乗れるというか、ただ流される。
「流される」という状況は第三者からすると悲惨に見えるが、ある意味究極的に楽のなのである。
流れ着いた先のことについて、全て川のせいにできる。
自己を喪失することで、自己を完璧に守ることができる。
もちろん、そんな人たちがどうこう意見する資格なんてないわけだが。

 

 

ブラック企業という川は、この船乗りという存在を嫌い、荒波で船をかっさらい、ただただ船乗りを川にとって都合の良い方へ流れささせていると言えるかもしれない。

しかし、結局、大事なのは「ブラックであるか、ないか」自体ではなく、「自分が船乗りであることを自覚し、その川の流れが自分にとって悪いか、良いか判断すること」自体が重要なのではないだろうか。
その判断を細分化するために学ばないとけないし、そしてその判断のもと、流れを乗りこなせるようになることが成長なのではないだろうか。
そして、無理だと感じたら、沈没する前に引き上げなければいけない時もあるだろう。
その判断も船乗りがするのである。

 

船乗りの視点からの正解と、川の視点からの正解は違う。
それを一緒にぐちゃぐちゃにして考えることは、もはや考えてないのと同じ。
難しいことを考えてはいけない。
難しく考えるより、まずはちゃんと船乗りであり続けること、そこからなんでしょう。

いやはや、頑張りたいものである。