「面白いものを作りたい」と思えば思うほど、面白くなくなる
「面白いものを作りたい」と思えば思うほど、どんどん面白いものが作れなくなる。
学生の頃、漠然と面白さを追いかけていた時にぶつかった、なんとも奇妙な壁である。
最近ではもはや「面白ものを作りたい」と思わないようにしている。
この言葉というのは、一種の呪いにすら思う。
しかし、それを呪いと言ってしまってもなんの解決にもならないので、ちゃんと考えてみる。
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ここで大事になってくるのは「絶対に面白いものは作ることはできない」という、そんなこと言ってしまったらお終いのように感じるが、それをちゃんと自覚することなのではないかと思う。
「遊び」という存在自体は「面白さ」という感覚知で成り立っている。
面白ければ、それはどんなものでも「遊び」と言えるし、
逆に面白くなければ、どんなものでも「遊び」とは言えない。
「遊び」において、「面白さ」とは絶対王者なのである。
だから、作り手は「面白さ」を求める。
当たり前だ。
しかし、この「面白さ」を判断するのは「遊び手」である。
「遊び手」とは、式における変数。
確かにある程度はパターンにはめられるが、当然一人一人が全然違う人生を歩み、全く違う感覚知を持っている。
しかし、それが人の面白さであり、この個人の差異をそれぞれで肯定させ、のびのびと踊らせることができるのが「遊び」の素晴らしさだと私は思う。
そうなった時、私は「遊び手に絶対に面白いと言わせてやる」というより、「遊び手が面白い・面白くないを自由に判断できるようにする」というスタンスが大切なのではなかと考えた。
つまり、変な話だが、「遊び手が面白い・面白くないを好きに判断できる」という状態自体が「面白い」のである。
だから、「遊び手」においては「面白さ」が重要だが、「作り手」において「面白さ」とはもやは「副産物」なのではないだろうか。
「作り手」において「面白さ」とは実は結構距離が遠い。
そんな遠いことについて考えても曖昧なことしかわからない。
「絶対に面白いもの」というのは、もはやその判断する「遊び手」を脅すような、そういう強烈な考え方なのかもしれない。
じゃあ、「作り手」はなにを軸に作ればいいのだろうか。
正直なところ、いまいちわかっていないが、今のところしっくりきているのは「面白くても、面白くなくても大丈夫にしておく」ということであった。
結局曖昧なんだが、無理に「遊び」を「遊び手」に肯定させる責任を負わさせていけないのである。
それは「遊び手」ではなく、「作り手」が負わないといけない責任で、つまり「遊び」自体で自立させる、価値を持たせないといけない、ということ。
それは一種「作り手」の「覚悟」。
どこかのラインで、「ここまでは私たちが管理します。しかし、そこから外はあなたたち遊び手が管理してください。」と切り離すことでもある。
つまり、「作り手」がその作った「遊び」の価値を断定させること、それがその場に「作り手」がいなくても成り立つように「遊び」を固定させる、それがクリエイティブなのではないか。
この潔さがとても大事に思えて仕方がない。
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あんまりこういうことを部外者が言うのも嫌だが、最近の「遊び」を売っている会社はこの「絶対に面白いものを作る」というのに囚われているように感じる。
当然だ。
会社としては売れないと困るわけだから。
しかし、だがしかし、その結果できている「遊び」というは、妙にネチョネチョしているというか、論理で固められた「遊び手第一」という謳い文句で作られた「作り手の都合の塊」に感じてしまう。
もちろん、それでも遊べないことはない。
しかし、私が思う「美しい遊び」とはどうしても違うように感じる。
私は「美しい遊び」が作りたい。
そのためにも一歩一歩、しっかり積み上げていきたいものである。