1人でやってみる。
大学卒業してからは1人でものを作るようになりました。
ここでの「1人」というのは、本当に1人です。
大学では、なんだかんだ1人課題でも一緒にやっている仲間が横目でもいましたし、そもそも課題やその取り決めなんかは先生がやってくれていたわけですから、1人でやっていたとは言い難い。
もはやそんな課題から考えていく、本当の1人というのを味わいました。
何か相談したくても、周りの人たちはいませんし、皆それぞれの生活があり、時間を合わせるタイミングや、無闇に時間を謳歌する余裕もありません。
しかし、1人で作るというのは、大学の課題以上に学びというのがあったとも思います。
1人の場合、ただ闇雲に走ることだけ考えることはできないのです。
ちゃんとスタートを置いて、ゴールを置く。
そうしなければ、良し悪しどころか、もはや「ものづくり」にすらなりません。
しかし、そう簡単に置くことはできませんから、とりあえず走ってみる。
走っていく中でスタートを見つけて、ゴールをなんとなく想像してみたり。
そういうのを嫌でもやらないといけなくなるというのが、とても勉強になりました。
というのも、大学時代でものづくりで困っていたのは「走る」ことではなくて、この「スタートとゴールを置く」ということでした。
ただただ走って見せて、それを先生に見せてみる。
そうすると、なんとも言えないリアクションが返ってきて、また走ってみる。
しかし、そう繰り返していくうちに、なんで自分が走っているのかわからなくなり、自分の走りが否定されるのが怖くなって走らなくなってくる。
走ろうと思えばどこまでも走れそうで、じゃあどこまで走ればいいのか、とりあえず徹夜してみて走りきったフリをして。
課題において正解、不正解はある程度はあるのでしょう。
しかし、それは大まかなわけ隔たりくらいでしかなく、より細部の部分は恐らく作り手が制定、管理しなければなりません。
そこを手放そうとしてしまえば、言ってしまば作り手ではないのかもしれません。
私が学生時代、ある程度うまくいった課題は、いつも「面倒くさいな」と思った課題でした。
面倒っていう感情はよくないのかもしれませんが、それつまり「自分が面倒にならないための制作」という視点でスタートとゴールをしっかり自分の中で制定できていたりします。
結局、自分やれる以上のことは無理なわけですから、面倒という判定基準はちゃんともっていた方がいいのかもしれませんね。