戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

輪ゴムを引き伸ばす遊び

 

輪ゴムを見かけると、ついつい引き伸ばしたくなります。

輪ゴムを指にあやとりのように絡ませて、その弾力を味わいながら戯れる。

そうでなくても、ついつい手首にパチンとはめたくなります。

 

輪ゴムの魅力はその「抵抗力」の部分でしょうか。

こちらが力を入れて輪ゴムを伸ばせば伸ばすほど、その分輪ゴムは元の戻ろうと抵抗力が強くなります。

何も力を入れられていない輪ゴムはとてもリラックスしていて、やる気なさそうに弛んでいますが、グッと引き伸ばすとゴムが引き締まり、その輪ゴムが肌に食い込みます。

輪ゴムの抵抗を、ひしひし肌で、痛みとして感じます。

 

「抵抗」と言われるとあまりいいように感じませんが、抵抗されるからこそ、その行為をより実感して感じられるものです。

サッカーでの壁当てもそうですね。

強く蹴れば蹴るほど、強くボールは跳ね返ってきて、そのボールを受け取るのが難しくなります。

わざと強く蹴って、強烈な跳ね返りをトラップする、そんな遊びをよくしていました。

 

自分でやった行為を、自分で受け止める。

それ非常に大切なように思います。

優しくやると、優しく返ってくる。

雑にやると、雑に返ってくる。

「何事も優しくやりなさい」というわけではないのです。

わざと乱雑にやってみて、その跳ね返ってきた乱雑さはどんなものなのか、それを知ってみたいのです。

また、その乱雑さを自分は受け止められるのか、そういうのを試してみたいのです。

跳ね返りを受け取ってみて、初めて「あぁ、乱雑だなぁ」と確かな実感として得られるものです。

 

強く返ってきたボールを受け止めることができなくて、後ろへぽーんとどっかにボールが遠くに飛んでいってしまう。

その遠くへ行ったボールを取りに行く虚しさというのもまた、「受け止められなかった」というのをしみじみと実感して、それは案外嫌いじゃありませんでした。

輪ゴムも、切れそうになるくらいグッと伸ばして、その輪ゴムの強烈な抵抗力に指を痛める感覚、切れるギリギリのチキンレースをする感覚は、まさしく「引き伸ばしている」というのを実感させられます。

 

「抵抗力」との戯れは、非常に健全的というか、安心の中での戯れができるように思います。

私たちはもっと「抵抗力」と仲良くやって行った方がいいのかもしれません。