言語化の大切さと、気持ち悪さ
言語化って大事ですよね。
大事だと思っているからこそ、こうして毎日ブログ書いているわけですし。
別にしなくてもいいのなら、こうしてパソコンに向き合っている時間を別の遊びに使いたいですが、それでも「やった方がいいなぁ」と思っているからやっているわけですね。
大学の時の教授も言っていました。
「とりあえず名付けてみる」
色んな物事に名前をつけてみる。
よくわからないことも、当たり前のことも、大袈裟なことも、しょうもないことも。
そういうのを名付けてみること、そこから思考というのは始まる、そのようなことをいっていた気がします。
しかし、当時の私はその話を聞いて、「なるほど」と思いつつも、あまり気が乗りませんでした。
名付けてしまうと、もう「それ」になってしまうのが嫌というか、怖かったのです。
たぶん、「それ」が自分にとって大切であるほど、「それ」と断定してしまうことにとても不快感を感じます。
名付けてしまった瞬間、自分が好きだった「それ」は、好きであった形態を失ってしまうような。
どっかのグループディスカッションにて、最近幸せだったことについて1人ずつ話していくことになったことがあります。
その時、正直とても嫌だった。
私にとって幸せだったことを頑張って話そうとすればするほど、その時幸せだと感じた感覚がちっぽけになっていくような、そんな感覚を味わいました。
あの場で話すべき「幸せに感じた話」は、「人に話せる幸せに感じた話」だったのでしょう。
それか単純に、私が気にし過ぎ野郎なだけか。
こうして、毎日言語化に勤めているのは、恐らく「言語化したくない」分野を守るためなのかもしれません。
なんでもかんでも言語化に当てはめて、なにもかもわかったようにもなりたくないし、なにも喋らず、頭の中を広げてなにもかもわかったようにもなりたくない。
そういう風にも考えなくてもいいのかもしれない。
書きたいから書く。
そんくらいの方がちょうどいいのかもしれない。