戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

痕跡の美学

 

砂場に時々、砂場遊びのキットが忘れられているときありますよね。

あの光景ってなにかそそるものがあります。

ただ乱雑にスコップとかが刺さっていたり、落ちていたりする、その断片は見知らぬ誰かがそこで遊んでいたことを表している。

その遊びの痕跡から、妙になまなましい遊びの様子を想起させられるのです。

その遊んでいたところから、フッと人が消えてしまった、そんなミステリアスな空気も感じ取られます。

あんまりよろしくないんですけど、その忘れられた道具を使って砂場遊びするのもまた、その見知らぬ遊び道具の所持者の追体験をするような、背徳感というか、不思議な感覚がありました。

 

「痕跡」というのは、ある意味言葉より信用できる情報ですよね。

公衆トイレに入った時に、トイレットペーパーがキレイに畳まれていたらそれだけで嬉しくなります。

自動販売機のゴミ箱が溢れている様子を見かけると、捨てようとした人が困ってゴミ箱に無理やりねじ込んだり、すぐそばに添えたりしている様子を想像できます。

プレゼントをいただけると、そのプレゼントをわざわざ選んで買ってくれたのを想像できて、より一層ありがたさを感じます。

第一印象とかも、人の見た目という「痕跡」からその人を想像して判断していますよね。

「私は綺麗好きです」と言われるより、着ている服装がピシッと決まっている方が信用できるものです。

 

もちろん「痕跡」は悪い想起につながることもあり、そうしないように「痕跡」を消すというのがマナーだったり、礼儀だったりするのでしょう。

ですが、良い痕跡というのはわざと残しちゃってもいいんじゃないでしょうか。

「やってあげたんだよ」と面と向かって言われるのはちょっと嫌ですが、人の親切心ってされたことに気づけたら、もっとより良くなるような気がします。

だから、良い事したら、ちょっと気づけるように跡を残しておいて欲しいです。

そういう「良い痕跡」というのが溢れている環境って、すっごく楽しいように思います。

 

あーあ、公園の砂場に遊び道具をわざと設置してくる仕事とかしたいですねー。

なんだったら、スプーンとか全然砂場遊びの道具じゃないものを設置してやりたいです。

怒られますかね?