戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

遊びの作り方_例1

 

例えば、「絵を描く遊び」と言われても、いまいちピンときませんよね。

絵を描くのは楽しいけど、「そうだね、だからなに?」で終わってしまう。

だから、それを一般的な軸からズラさなければならない。

例えば、「左手(利き手じゃない方)で描く」という風にすれば、「ほう…、で?」くらいにはなる。

別にこの段階で「面白そう!」ってしなくてもよくて、なにか遊び手に「違和感」を与えさせればいい。

そして、その「違和感」が遊びにおける「核」となります。

 

「核」は言い換えると「遊びのカケラ」であり、「種」です。

それを「遊び」にまで成長させるには、育てなければなりません。

「面白い」というのは、この育て方次第で実ります。

例えば、「左手で描く」ものを「平仮名」とします。

文字というのは、普通、なんの意識もせず、スラスラと書けちゃうものです。

そんな『馴染みある文字、「平仮名」を左手で書いてみよう』という提案です。

しかし、まだ弱いですね。

もう少し考えてみます。

例えば、『左手で書いた平仮名表を作ろう』としてみます。

自分が書いたものが、一つの形としてなるようにするのです。

そうすると、その拙い文字をまじまじと向き合う事ができるし、その結果があることでそれを制作する過程も「平仮名表を作る」という意味合いが付加されます。

ここまでイメージを膨らませてみると、「まぁ、面白いかもしれないんじゃない?」くらいまで行けるのではないでしょうか。

この「面白そう」とは、「実際にどうなるんだろう」という、未知への興味です。

それは「未知」という雲ように淡い存在でありつつ、その雲を「触れる」という、『未知であるのに近い』という、イリュージョン的な関係性なのでしょう。

もっともっと「平仮名を左手で書く」という行為を広げさせることはできないでしょうか?

例えば、その遊びを複数人で一緒にやります。

そうすると、自分の右手の平仮名と左手の平仮名の「比較」とは別に、自分の書いた左手平仮名と他の人が書いた左手平仮名を「比較」することができます。

別の角度から「比較」することで、自分の作ったものが何者のなのか理解しやすくなり、「私の」という意識が強くなる事が予想できます。

また、「比較」というのは相手と比べて「劣等感」を感じてしまう場合がありますが、「左手で書いている」という、下手なの前提で進めていますからその心配はあまりありません。

さらにアイデアを膨らませてみると、例えば、その書いた左手平仮名をフォントにして実際に使えるようにしてみます。

そうすると、その遊びの枠組みを超えて、日常的に自分の作った「左手平仮名」と戯れる事ができます。

拙い文字というのは、基本的には嫌われていますが、私の書いた左手平仮名として向き合ってみると、その拙い文字も一つ味わい深い可能性を秘めていると言えます。

その拙い文字とは、綺麗な文字とは別の扱い方ができる可能性があるのです。

まだまだ、アイデアや展開の仕方はあると思いますが、ここまででも上手にまとめ込む事ができれば「面白そう、面白い」まで到達する確率はだいぶ上がっているのではないでしょうか。

納得できれば、今度は「それをどうすれば実行できるか」を考えなければなりませんが。

 

ここでとにかく言いたいのは、「面白そう・面白い」というのは、育て方次第で割となんとでもなるということです。

それ以上に重要なのは、その遊び作りの始まりである「遊びの核・カケラ・種」の部分です。

こことどれだけ向き合い、その種の弱みを抑え、強みを展開させられるか。

それが今ところ、自分のなかで一番自然な遊び作りの文脈だと考えています。

遊びの種とは、まだ遊びにならない「面白くない」状態のものです。

だから、「面白い」ということばかり考えると、この種と向き合わなくなってしまいます。
ここを疎かにしてしまう場合がかなり多いです。

種をちゃんと向き合えば、育て方はおのずとわかるものです。

焦ってはいけないのです。

このまだ芽吹いていない種の可能性に気づく、もしくはわからなくてもとりあえず遊んでみようと思うことが、遊び作りの始まりなのです。

そう、とにかく「遊びの種」、これを愛したいのです。

 

と、私は思っているのですが、どうなんでしょうか?

もちろん、そんなに綺麗に進まないのが現実。

ですが、頭の中だけでも理解しておきたいです。