戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

風船

 

風船には2種類の風船がある。

手を離すと飛んでいってしまう風船と、手を離すとゆっくり落ちていく風船だ。

どちらの風船も好きだけど、やっぱりちゃんと浮いている風船の方がいい。

いいんだけど、なかなか手に入れられる機会がないんだよなぁ。

 

浮く風船といえば、やはり誤って手を離してしまい、空へ飛ばしてしまうまでが恒例行事だろう。

あの虚しさと言ったら、子供ながらこんな残酷なことがあってよいものなのかと嘆いたものです。

あの感覚って、本当に他で味わったことのないくらいの喪失感です。

例えば、食べていたソフトクリームを落とす、これもなかなかに辛いものですが、でも落ちたソフトクリームは地面にあるんですね。

しかし風船は、最初は頑張れば届きそうな電柱くらいの高さかと思えば、次の瞬間にはビルの高さといった足がすくむところにまでいってしまう。

戻ってきて欲しい気持ちとは裏腹に、そんなのお構いなしで容赦なくどんどんと高度を上げて小さくなっていく。

それはまるで自分が下へ落ちていってしまっているような感覚でもあり、あのちっぽけな風船がいともたやすく自分が到達できない場所へいってしまうことに違和感を感じる。

そうしていくうちに風船を見失い、宇宙と地球の境目で1人寂しく飛んでいる風船を想像し、その風船に同情しながら仕方なくまた地上へと視点を戻すのである。

もはや、風船を持っていたという事実が嘘だったかのように、自分の手元から忽然と消え去るのである。

落ちたソフトクリームは目の前にはっきりと絶望があるとするなら、風船はその絶望すら見えなくなって消えてしまい、絶望に浸ることすらできずただただ愕然とする。

まさしく、夢見心地である。

 

風船を飛ばしてしまうことで空の高さを知り、あの自分の範疇を超えた手の届かない自分の無力感を知る。

虚しさと一緒に、1つ大人の階段を登ったような気がする。

風船が1つ空へ解き放たれるたびに、1人の子供が大人になっていっているのかもしれない。