「わからない」を作る
物事に対して「わかるようになるために努める」というのは難しいけれど、それが大切であるということは誰しもが「そうだろう」と言うでしょう。
けれど、実はその逆である「わからなくなるように努める」ということも、「わかるように努める」と同じくらい大切なことではないかと思うのです。
いわゆる、「無知の知」ってやつに近いのかもしれませんが、「知らないことを知る」と言われてもいまいちピンとこないものです。
そういう風に言うより、「あれ、これ知らないな」って思ってしまう、そんな極地にまで出掛ける意気込みと、その状態が素晴らしいということを知っている必要があるのだと思います。
「知らない極地」というのは、案外簡単に行くことができます。
物事を小さくみたり、逆にやたら大きくみたり。
深掘りしたり、逆にやたら浅く見てみたり。
あえてやってはいけないことをやってみたり、知っているものを別のものに例えてみたり。
なんにせよ、重要なのは「わかりやすく『わからない』を作る」ことです。
これは「いい作品を作る」ではなく、「あえて悪い作品をちゃんと作る」と言えるかもしれません。
例えば、リンゴは普通赤色ですが、違う色だったらどうだろうか。
「リンゴは赤がベスト」なのかも知れませんが、「もし、リンゴが真っ青だったら」というのは、なんとなく想像はできるけど、やっぱり「わからない」のです。
そんないろんな色のリンゴをバーっと並べてみると、わかりやすくよくわからないが現れてきて、そこでわからないものと戯れることができるのです。
ある意味、「わからない」がなければ始まらないのです。
ある友人が「わからないから作るか悩んでいる」と言っていましたが、わからないから作るのです。
わかっているのなら別に作らなくていいんじゃないだろうか。
そうして、「わからない」を作り上げたとき、そこでようやく何がわからないのか、何に惹かれて、何が違和感があるのか、それがわかる可能性が出てくるのです。
なにがわかるところに置いて、なにをわからないところに置くのか、そこの判断かとても重要。