戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

考える無意味さ

 

これは極端な話だし、一般的な「考える」とは違う話なのかもしれないが、書かせてほしい。(いつもそんなもんだけど)

私自身、考えることは好きだし、考えられないという状況は嫌いなんだけど、でも考えるというのはそんなに役に立たないものだ。

1日の半分を考えていますという人がいて、じゃあその人がなにができるかというと考えることだけなのである。
外から見れば、1日の半分を寝ている人と、そんなに変わらないのである。
だから「考えるのはクソ」だとか、「考えてないで動け」というのは違うと思うが、「考えるというのはその程度」というのは理解していた方がいい。


考えるということとは「立ち止まる」ことだと思う。
「ちょっと待って、これはやばくないか」と気づき、そしてちゃんとブレーキをかけること。

しかし、立ち止まれたとして、それから悩んだとしても大抵なにも解決はできない。
結局は転けてしまうとわかっていながら進まないといけない。
しかし、それはなにも考えず転けるとは、全然違うものなんだろう。

だから考えた後も怖がらずに、ちゃんと転けたい。

 

また、考えるは素潜りにも近い気がする。
グッと息を止めて、潜る。
それが浅くても、深くても実はそんなに関係ない。
大事なのは息継ぎを忘れないこと。
ちゃんと息継ぎのために浮上すること。
考えるという潜水は難しいものだ。
なにせ水が見えないのだから。


久々にお風呂で子供みたいに息を止めて潜ってみよう。
そこにこそ「考える」の真髄がある気がする。