戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「時間無限」と遊び

 

時間というのはどんなに足掻いても進むし、早くもならない。

どんなに頑張っている人も、どんなにダラけている人も、同じ分だけ時間が流れている。

今の世において、時間くらいしか平等なものはないのではないだろうか。

それゆえに信用できる。

 

いやしかし、時間というのは残酷なものだ。

私の人生、「ちょっと待ってくれ」の連続だ。

それでももちろん時間は待ってくれない。

落ち着きたくとも、楽しみたくとも、休みたくとも、不貞腐れても、時間ってやつはお構いなしだ。

常に終わりである「死」というのを意識しているわけじゃないけど、一日、一日たち、月日が変化し、月日がループし、今日の出来事が「○年前」と表せるようになっていくごとに、自分の時間というのが削られていくのを感じる。

 

やろうと思えばやれるかもしれない。

頭の中ではイメージできている。

しかし、実際の場面では、そこに時間ってやろうがヌッと現れて、私の後ろに立ち続けて焦らしてくる。

そうなると途端に何もできなくなる。

今、それをやっていていいのか悩んでしまったりする。

 

時間は人がコントロールできるような品物ではない。

当たり前だ。

しかし、遊びやゲームの中ではそれができてしまったりする。

例えば、コンピューターゲームの中でのとある選択肢。

基本的にここに時間制限はない。

ゲーム内の世界はその瞬間、時が止まる。

プレイヤーが選択するまで、時間が待ってくれるのだ。

悩もうと思えばいくらでも悩める。

その選択に自分が納得するまで向き合うことができる。

プレイヤーが時間の流れを操作することができる。

それというのは、案外現実ではなかなか思う存分嗜むことができないものなんです。

それがとても嬉しい。

 

現実において、選択というのはプレイヤーの事情関係なく理不尽に訪問してくるし、そこの判断も瞬間的だったりする。

そして、失敗したと思った時には時間は流れ、既に過去のものとなっている。

それに備えたりして自分をコントロールしないといけない状態というのは、なかなかに大変だし、楽しむことができない。

時間無限の中で名一杯向き合えるということ、ゲームの中では割と当たり前のように遍在しているが、たったこれだけのことでもものすごく貴重な体験であり、面白いのである。