戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「放り投げる」と遊び

ものを上に放り投げて、それをまたキャッチする。

そんな単純な動きが実はかなり面白い。

この動きは大きく分けて「投げる」「空中」「キャッチ」の三段階でできている。

そして何よりこの遊びの肝になってくるのが真ん中の「空中」の状態だ。

「空中」、これはつまり自分の手から離れている状態。

それまで手の中に置き、コントロールの配下に置いていたものを手放し、あえて不安定状態にしてしまうのである。

しかし、完全にコントロールできないわけではない。

「投げる」という、それを追い出すときの力加減等で、その「空中」の状態を多少コントロールできないことはない。

力強く投げれば大きく長く空中を舞い、静かに放り投げれば小さく短く舞う。

また、言葉にできないような微細な影響も実際には受けているのだろうが、それによってどう空中を舞うかまではよくわからない。

やっぱり最後は空に委ねるのである。

そして、上に投げたものは重力によっていずれ落ちてくる、それを「キャッチ」する。

「投げる」が「空中」を生み出すものなら、「キャッチ」は「空中」を受け取り、その「空中」を味わう行為だろう。

「投げる」のはできても「キャッチ」は少し難しい。

自分の外側、コントロールしていないものを扱うからだ。

コントロールできないからこそ、自らがその状態を理解し、それに合わせて対応しなければならない。

ものが空を舞うとき、そのものに見惚れてしまう。

コントロールできないその空を舞うものに心を寄せて、目で追って、その瞬間は過去のこととか未来のこととか、なんなら今の自分すら忘れて、それに食らいつくのである。

対応に失敗すれば落としてしまい、成功すればまた手の中にそれが戻ってくる。

自分の対応が正しかったのか、はっきり2択で現れるのもとても信用できる。

 

「空中」からの「キャッチ」の二行程だけでも十分楽しめそうだが、「投げる」からの「空中」だけでは少し物足りなさがあるか。

「キャッチ」には失敗・成功のはっきりとした結果や、受け取った時の衝撃などがあるが、「投げる」だけではその自分の投げた行為が何者なのか、その手がかりがなさ過ぎる。

例えば、投げる先が川だったりするとボチャンと音と水飛沫があがる、そういう跳ね返りがあると「投げる」という行為だけでも味わうことができる。

しかし、どちらにも言えるのは「空中」という状態がなければ始まらない。

キャッチボールだって、間に「空中」があるから面白いのであって、ボールを持ったまま歩いて相手に直接渡しても何にも起きないのである。

「空中」という状態があること、そしてその状態と自分を繋げる「媒体」があること、この2つがはっきりしていると戯れやすくなる。