戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「先が見える」と遊び

 

先が見えるということ。

例えば、山を登っているとして、息を切らしながらバッと顔を上げると目的地の山頂が見える。

それは、30分前よりも近く見えたかもしれないし、まだまだ先が長いことに絶望するかもしれない。

先が見えたことでどんなことを思うかはわからないが、逆に言えば先が見えたことで何かしら思うのである。

先が見えることで、今の立ち位置を知り、過去を感じて、未来を予測する。

たった一点が見えるだけで、色々な点も立ち上がってきて、それらがつながってなにか物語のようになる。

 

遊びにおいて、結果は過程の味付けに過ぎない。

どういう結果・ゴールの見え方が、どのような過程を生み出すのか、そこが重要なのだろう。