「わかる」「わからない」と遊び
遊びというのは最後の最後まで結末がわかってはいけない。
対戦ものの遊びにおいても、途中では結果がはっきり見えないようになっていたり、負けそうになっている側が有利になる要素や、一発逆転の何かがあるようになっている。
それは、そうしないと負けている側が不貞腐れてやめてしまうからというのもあるが、遊びというのは「わかってしまう」その時点で終わってしまうのである。
わかってしまっては、もうそれ以上遊ぶ必要がなくなってしまうのだ。
それならば、例え遊びの途中であっても、新しく遊びを始めるか、違う遊びを始めた方がいい。
これは遊びの感覚の不思議なところである。
普通、わからない状態というのは嫌がるはずなのだ。
私たちは普通、家の中で暮らし、その中が安全だと「わかっている」からリラックスできる。
しかし、それが山の中で野宿となると、もしかすると野生動物に襲われるかもしれないし、天候が悪化するかもしれない。
不安定で、信用ができず、非常に怖い状態。
しかし、遊びにおける「わからない状態」というのは、山の中の野宿ではなく、家の中の安全な「わかっている状態」の中で繰り広げられる「わからない」なのである。
ある意味、擬似的なわからない状態。
遊びが終わればすぐにこの安全な「わかっている状態」になる、その信用があるからこそ、不安定を楽しむことができるのであろう。
また、遊びを続けるには「わからない」ようにする必要があると同時に、逆遊びを終わらせるには「わかる」ようにすればいいとも言える。
遊びというのは前述したように「わかっている状態」に戻ってこれるからこそ安心して遊べるわけであって、逆に遊びがしっかりと終わらず、「わかっている状態」に戻らせてくれない遊びというのはとても厄介なのだ。
そういう遊びというのは、プレイヤーが努力してうまく折り合いを付ける羽目になって、それは余計エネルギーを使ってしまうし、常にブレーキを意識してしまうから純粋に気持ちよく遊ぶことができなくしてしまう。
しっかり終われるということは、遊びにおいて信用を得ることであり、それは実はより一層遊ばれる環境に繋げられるのではないかと思う。
そして、プレイヤーが気持ちよく遊びを終えるためには、しっかり「わかる」状態を作り出す必要がある。