「同じ」と遊び
昔、ドラマの登場人物がスパッと首を刃物で切るシーンを観たとき、観ている自分の首筋がヒヤリと感じて、つい手で抑えてしまった。
自分の首筋を切るなんて、例えどんなに追い込まれた状況であれ、それをやってのける度胸はできそうもない。
いや、しない方がいいのだろうけど。
この実際やってもいないのに観ているだけで、まるで自分もやったかのように感じるというのは、その観ている対象と自分が「同じ」だと認識しているからだろう。
たとえ草木が切られていたとしても、それに対して自分が切られたようには感じず、むしろそれを切っている人たちの感覚と共鳴するだろう。
同じ形ではなくても魚とか虫とか、頭とか手とか、そういった同じようなパーツがあると共感できなくもない。
魚でも、活発に餌を食べている様子を見ていると、なんだかこっちも嬉しくなる。
「同じ」という言葉を使うと「同じか・同じじゃないか」の二択のように聞こえるが、実際は「ここは違うけどここは同じ」といったようなグラデーションになっている。
この「同じと感じる度合い」によって、それに対する感じ方・見方・扱い方・捉え方が決まってくるのだと思う。
そもそも、「同じか・同じじゃないか」なんて見方次第でいくらでも変えられてしまう。
物事に「完全に同じ」と「完全に違う」は存在しない。
だからこそ、「どこに注目してもらうか」が大切になってくる。
人と全く違うように見える草木も、同じように生きている存在であるから、やっぱり枯れている様子をまじまじと見せつけられると、なんだかこちらも萎れた気分になる。
人と同じように動いて生きている魚も、姿造りで出されるとグロさより「美味しそう」が勝ってしまう。
このことは不思議で、なによりとても面白いことだ。
この「同じと思う感覚」が曖昧だからこそ、人は色んなことを想像し、色んなものを創造しているのだと思う。