「自分と他人」と遊び
サッカーにおいて、そのフィールドの中で駆け回っている自分というのは紛れもなく「自分」だ。
そして、その周りの他プレイヤーは「他人」であろう。
しかし、自分のチームメンバーというのは、「他人」であるが「自分」でもある。
自分のチームがゴールを入れれば自分ごとのように嬉しいし、逆にゴールを入れられてしまったら自分ごとのように悔しい。
ボードゲームにおいて、そのゲームをしている私自身というのは紛れもない「自分」で、そのゲームを一緒にしている対戦者たちは「他人」であろう。
しかし、たしかにボードゲームには勝ち負けがあり、相手プレイヤーというのは自分にとって敵であるが、その関係が本当に啀み合い始めたらおそらくボードゲーム をやめてしまうだろう。
お互いが勝利を求めて切磋琢磨し合うのだが、その中でのメンバー同士でのやりとりを楽しむというのが、ルールには書かれてはいないけれど一番重要なのでしょう。
そこには、みんなでボードゲーム を囲む一体感があり、そこでの「みんな」の意識は、「他人」であるはずなのに「自分」に近いようにも感じてしまう。
ポケモンにおいて、ゲーム機を握り、画面内の世界に夢中になりながら操作している私は紛れもない「自分」である。
そして、その画面に映る自分が操作するキャラクターは「自分」でもあり、「他人」でもある。
さらに、そのキャラクターが扱うポケモンというキャラクターは、もう一つ「他人」側に傾いているように感じる。
ポケモンの面白さの一つは、この「自分」と「他人」のグラデーションの部分のように思う。
「自分」とは主観的、内から外側へ向けた目線。
「他人」とは客観的、外から内側へ向けた目線。
それらが入り混じることで、私たちは自分の身体を忘れて色々な感覚知へひょいひょいと旅へ出かけることができる。
それができるとどんなものにも比べられないくらい自由を感じる。
そこの行き来だけでも、十分遊びになりうるのではないかと思う。