戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「いい理由」を持つ

 

当たり前なんですが、物事なんでも理由がないと動けないものです。

私たちがご飯を食べるのも、トイレに行くのも、遊びたいのも、理由があるんです。

だから、生きていることにも、自分の存在価値にも理由を欲してしまうのでしょうか。

 

そう、逆に言えば「理由さえあれば、なんだってできる」とも言えます。

どんな残虐なことでも、なにかちゃんとした理由があれば人はやれてしまう。

そう思うと、「なにをするか」を考えるより、それを「する理由」を考える方がいいんじゃないかと思う。

 

ただ、理由はなんでもいいというわけではない。

自分が心の底から納得できる理由でなければならないし、なにより「どのような理由を持つか」でその人というのは決まってしまうものだったりする。

たとえ、同じことをしていたとしても、それをただ「やらないと怒られるから」という理由でやるのと、「こうするとどうなるか興味が沸いたから」という理由でやるのとは、たとえ同じ過程・同じ結果となったとしても、その人たちが進んだ道のりは恐ろしく違ってくる。

 

そう思うと、良き歩みをしたいのであれば、「良き理由」を携えなければならないのだろう。

理由はなんだっていいけど、なんだっていいわけなじゃない。