戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「拡張」と遊び

 

映画館の仕事で館内にアナウンスをしなくてはならない時がある。

このアナウンスというのが、結構楽しい、というか気持ちがいい。

普段会話とかで喋ることを意識することなんてないのに、こうしてアナウンスで聞こえやすくハキハキと喋ろうとすると、急にイントネーションがわからなくなったり、うまく喋れなくなってしまう。

あれですね、その喋る内容も自分の言葉ではなく、名も知らぬ誰かが考えた文章を読み上げないといけないから、それも合間って難しい。

だからこそ、噛まずにスラスラ綺麗にアナウンスできた時は、満足気にマイクを下ろします。

逆に、少しでも噛むと、そのミスが大きな声で館内に響き渡るので、ものすごい恥ずかしいものです。

そのスリルも嫌いじゃないけれど。

 

アナウンスの面白さとして、「拡張性」というのがある気がします。

自分のアクションが、何か媒体を通すことで拡張され、大きな動きとして現れる。

自動車のアクセルも、軽く踏むだけで人が到底追いつけないスピードにまでなってしまう、その「拡張性」が気持ちがいい。

「拡張」させることで、普段気づかないような小さな誤差が大きく現れ、そうしてそれと「戯れられるようになる」とも言える。

また、小さなアクションで済むということも大事で、これが必死にならないと現れないのであれば、そのアクション自体にエネルギーをかけすぎて、現れたものと戯れる余裕がなくなってしまう。

コンピューターゲームなんかも、ボタンを押すとか、スティックを倒すとか、そういう指の動きという小さなアクションで済むからこそ、画面の世界に思い存分戯れるわけです。

そういう意味では、コントローラーの小さな操作を、画面の大きな動きへと拡張させているとも言えます。

小さすぎてよくわからないものは大きくしてみて、大きすぎてよくわからないものは小さくしてみる。

なにより、わかることが大切らしい。