戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「自己顕示」と「カムフラージュ」


どこかの本で、生き物の防衛手段は「カムフラージュ」と「自己顕示」の2つであると書かれていたことが心の残っています。
なんの本だったかは忘れましたけど。

「カムフラージュ」は、環境に溶け込み、敵から見つからないようにする作戦。

「自己顕示」は、毒ガエルのなんとも毒々しい模様のように、敵に自分が強いことや、危険であることを演出・アピールする作戦。

そして、この相反する2つの作戦は、その時代や状況、自身の形状やその生活スタイルなんかで、どちらが最適か決まってくるわけです。

 

実は人の戦闘スタイルというのも、時代によって「自己顕示」から「カムフラージュ」へと変化しているのです。

原始的な時代ですと、道具を使った近接戦闘が基本なので、相手の武器の攻撃から守る防具が必要と同時に、相手に対する威嚇的なデザインも重要となってきます。

今を生きる私たちにとって、昔の人たちの戦闘服の過多に感じる模様や装飾は、もはや滑稽にすら見えてきますが、しかし、実際に本気の命をやりとりをする状況で、目の前にあの禍々しい身なりをした得体の知れない人たちと至近距離で殴り合うとなると、やはり恐ろしさを感じてしまいます。

この「恐ろしさ」という心の隙が、近接戦闘の勝敗に大きく作用してくるでしょう。

 

しかし、技術が発展し、武器が手軽な遠距離攻撃が可能になってきてからは、一変して「カムフラージュ」へと身なりのデザインが変わってきます。

銃の前では、「自己顕示」の魔力の効果も薄まり、それ以上に相手に見つからずに遠距離から攻撃するほうが戦闘において有利になってしまったのです。

たしかに、現代の軍人さんの服のデザインは、完全に「カムフラージュ」としての機能に全振りされているように見えます。

そう思うと、今見るとおかしく感じるものも、当時はとても合理的だったというのがよくわかります。

 

そう考えると、若い人が明るく派手な服を着て、歳をとると落ち着いた地味な服を着るようになるのは、まさしく「自己顕示」から「カムフラージュ」へと変化しているように思います。

生命力溢れる若い時代は、その生命力を見せつける、またはそれ以上にアピールするようなスタイルであり、歳を取り、身動きも取りづらくなり始めると、地味な服、いわゆる自然環境に近い服装にすることで、なにか身を隠すようなスタイルになっているように感じます。

なにか、敵から身を守る意識というのはないけれど、ここらへん無意識に変化しているのかもしれません。

 

「自己顕示」と「カムフラージュ」の軸で物事を観察してみるのも大変面白いのかもしれません。