「欠陥」と遊び
欠陥がある方がリアリティがある。
作り手としては、そういう欠陥部分というのは嫌ほどわかっちゃうし、だからこそ完璧を求めてしまいがちなんですけど、それを見る側というのは対して気にしていません。
それどころか、欠陥がある方が好まれる場合もあります。
人は欠陥部分を見つけると、どことなく嬉しそうにその部分を指摘していたりします。
それは、人は完璧なものに酔いしれるのと同じくらい、無邪気で楽しいことなのかもしれません。
欠陥があるというのは一種「身近さ」の演出です。
あの勇ましいライオンが、ずてっと転んだ様子を見るとほのぼのとするのは、「あぁ、ライオンも私みたいに失敗するところあるんだなぁ」と、今まで自分自身とは比べられないところにあった存在を、グッとこちら側に引き寄せて共鳴してしまうところにあると思います。
勝手に友達くらいの距離感になっているような感じすらあります。
しかし、戯れ合いをするのであれば、それくらいの立ち位置くらいでないと成り立たないわけですから、遊び的には正しいと言える気がします。
隙があるからこそ、その隙をプレイヤーが埋められるようになるわけで、自身で埋める時点で「身近さ」は生まれてしまうわけです。
だからと言って、なんでもかんでも欠陥があればいいわけではなくて、むしろ一定の完璧さがあるからこそ欠陥を認知できるわけですから、やっぱりわざわざ作るものではないのでしょう。
しかし、ただただ欠陥を埋めるばかりではなく、弱点を武器にするような考え方は持ってそんなはないでしょう。