戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「布教」と遊び


「布教」、それは自分が好きなもの、ハマっているものを他者に話したりして勧めること。
割とオタク的な界隈でよく聞く言葉ですが、なぜ「布教」という言葉が使われているのでしょうか。
それは、いいものを見つけたから友人にも教えるといった「伝達」が目的ではなく、自分が浸っている遊戯空間に引き入れて、その「遊戯空間を拡張・補強」することが目的として強いからのように思います。
これは前回に書いた『「対立」と遊び』に通ずることで、対立では相手へのアクションや、その跳ね返りによって自分の所属を実感するのに対して、「布教」では他者に自分の所属しているものを認めてもらったり、所属に加わってもらうことで拡張し、所属を実感します。
所属することは、肩書き・役割を持ち、ある意味では演技すること。
そうすることで、自分自身を遊戯的に扱うことができるようになり、安定を持った上で気持ちよく全身で戯れに弾けることができます。
所属したところに人が増え、大きくなればなるほど所属している自身も拡張された感覚となり、より安定感も増します。
しかし、注意したいのが「布教」とは自分の都合でありますから、場合によっては相手に不快感を与えることにつながります。
他人を自分の遊び道具のように扱ってしまわぬよう、気をつけたいものです。