戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

メダカとインタラクティブ

 

私は今、メダカを飼っています。
とても可愛い奴らです。
餌をあげると狂ったように食いつきますし、そうやって元気な食いっぷりや泳ぎっぷりを眺めるだけで、なんだかこちらも元気になってきます。

しかし、当たり前ですが私とメダカ、ここにコミュニケーションというのは発生していません。
私が元気だなぁと眺めている姿は、本当はメダカにとっては苦しみの表現なのかもしれません。
そして、メダカもまた、私のことなんてそもそも認識しているかも怪しいです。
ですが、コミュニケーションが取れなくとも、私とメダカ、インタラクティブに関係を築くことはできます。
私はメダカを死なせながらも、何が彼らにとってよくないのか、どういう動きがよくない合図なのか、失敗と観察、仮説を繰り返しながら距離感を作っていきます。
メダカも、私が水槽の蓋を取ると餌がもらえることは理解しています。
それは、私という人間が何者なのかは知ったこっちゃありませんが、何度も何度も繰り返されていることで、規則性を把握しているのです。

私とメダカ、コミュニケーションは皆無ですが、お互いインタラクティブに要素要素を受け取り、お互いを理解しないまま関係性を築いているのです。
コミュニケーションができなくても、理解し合えなくても関係性は築けるというわけです。
むしろ、このインタラクティブでの関係の方が、清々しく健全だったりするものです。
生き物を世話するとは、そういう意味でも人にとってとても重要だと思います。