戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

ものづくりと掃除

 

私の親は2人とも美大出身で、仕事も自営でものづくり系の仕事をしています。

そんなこともあって、昔からものづくりは身近なところにあって、そういうのを横目で見ていたり感じていたのは大きかったです。

それが鬱陶しい時も多々ありましたが。

というか、父親のこと、そんなに好きじゃないのですが、そんな父の言葉でも特に心に残っているものがあります。

「とにかく掃除しろ」というものです。

散らかっていたり、汚れている環境で良い作業などできないということです。

とても当たり前のことです。

当たり前なのですが、思いの外、少し作業で環境というのはとっ散らかるものなのです。

特に慣れない作業だとなおさら。

1つ作業を終えたら掃除、また終えたら掃除と、とにかく隙があれば掃除します。

掃除を溜めてしまって、大掃除になってはいけません。

規模が大きくなると、どう掃除すればいいかがわかりにくくなりますし、なによりものづくりのテンポ感が崩れてしまいます。

一気に集中して作りたい気持ちもありますが、だからこそ、合間合間に掃除を差し込まないといけないのです。

そうすると、合間の掃除がいい感じの休息のひと時になったりします。

 

私はがさつで、繊細な作業とか苦手なのですが、だからこそ掃除に力を入れているところがあります。

ちゃんと環境が整っていれば、多少勢いまかせでいっても転ぶ心配が減りますから。

父のことは正直今だに気に食わないのですが、仕事の中でせっせこ掃除しながら真剣な顔で、体を丸めて一つ一つ丁寧にものを作っている様子は、今でも私のものづくりの姿勢の見本となっています。

これからも大切にしたい心構えです。

取れ高

 

些細なことなのですが、テレビとか、動画とかに出演している人が盛り上がった時に「取れ高バッチリ!」みたいなことを言う時がときたまありますけど、あれがあんまり好きじゃないんですよね。

他にも「取れ高がないよ〜」とか、そういうセリフもありますけど、やっぱりちょっと嫌ですね。

出演者としては当然のセリフです。

なにも考えず出演しているわけではないので、一心不乱にがんばっている姿を見せながら、心の中で「あ、今のいい感じ」とか、「これは盛り上がらないぞ〜」とか、絶対に考えているわけです。

考えながら、どうにか番組とかを良いものにするようにしたり、自分が良く見えるようにがんばるわけです。

ですが、私としては純粋にその1つの番組として観たいというのがあって、その時に「取れ高」というセリフを聞くと作り物感が出ちゃうというか、急にスッと素に戻っちゃう感じがあるんですよね。

演出が演出っぽくなってしまうというか、こういう表現はどうかと思うけどちょっと下品に感じてしまうというか。

別に悪いって話でもなくて、ちょっと気になる程度のことなのですが、人によってそういう小さな嫌さって色々あるわけで、それがあることも別に悪いことではないはずです。

むしろ、そういう小さな話を聞いてみたいものです。
私としては何事も露骨な演出を嫌うところがあります。

演出って、いかにナチュラルに仕上げるかだよなぁ…。

会話の録音

 

先日、スマホのボイスデータが吹き飛ばしてしまったこともあり、パソコンとかのデータをちゃんと整理することにしました。

そうすると、1年くらい前の友人との会話の録音データが発掘されました。

その友人とはよく通話とかで会話しているのですが、どっかのノリで録音してみることになり、そのまま放置されていたようです。

せっかくだからと、その1年前の会話を聴いてみたのですが、なかなか面白いものですね。

1年前の自分は何を考えていて、どんな姿勢をしていて、どこに立っているつもりなのか、なんとなく見えてきます。

これは1年経っている私が聴いているからそう感じるだけで、当時の自分にとってはそれが当たり前というか、自分だったわけです。

正直に言って、聴いてて「コイツ、ダメだなぁ」と、そんな風に思ってしまいました。

喋っている内容自体は今の自分とそんなに違わなくはないんです。

実際、その話している内容の先のことを最近では大切にしてやってきていますし。

けれど、そういう言い方しちゃダメでしょとか、もう少し落ち着いていいんじゃないかと、当時の自分が目の前にいたらちょっと説得したくなる、そんな気分でした。

調子に乗っているというか、乗らざるおえない状況だったのかもしれません。

それが一概に悪いことだとは言い切れませんが。

 

記録って、映像だったり、写真だったり、文章だったり、色々ありますが、「当時の会話の音声データを残す」というのは、特に当時の自分というのがよくわかる気がします。

内容だけてでなく、その声色やテンション、相手の話を聞く姿勢から、昔の自分の状況というのが痛いほど伝わってきます。

そしてそれは、未来の自分にとって膨大な贈り物になりえそうです。

定期的に会話の録音、やってみる価値ありそうですねぇ。

マウスカーソルとラグ

 

マウスカーソルは自由自在に動かせる。

ここに動かしたいなぁと思ったところにスッと動かせる。

自分の身体と同じくらい融通のきくものである。

だからこそ、ちょっとでも動きがカクついたり、追従が遅かったりと、少しの違和感も気づいてしまうし、それが強い不快感になってしまう。

 

ふと、いっそのこと思いっきりズラしたらどうなるんだろうと思う。

例えば、マウスを動かして、その動きがカーソルに伝わるまで1週間のラグがあるようにしてみる。

そうすると、画面の動いているカーソルの動きは1週間前の自分の動きとなる。

普通のカーソルというのは自分に近いものと感じていたのに、1週間のラグのあるカーソルの動きというのは変わらず自分なんだけど、その自分というのをとても客観的に見ることになってしまう。

例えば、あえて変なマウスの動かし方をして、その動きを見るのは未来の自分となるわけです。

それがとても興味深く感じるような気がする。

また、これが1年とかになるともっともっとエモくなるだろう。

星の輝きみたいですね。

なにか、自分というのが分身したような感覚だろうか。

未来への自分の贈り物というか、未来の自分へのイタズラというか。

 

そう思うとこの間というのも、やり方次第で面白くなるというか、むしろ間がなければ到達できない何かがあるように感じます。

この間というのも愛したいものです。

エヴァンゲリオン、あれこれ

 

かの有名なエヴァンゲリオンというアニメ、熱く語れるほど詳しく観ているわけではないのですが、この作品の主人公であるシンジくんはとても魅力的に感じます。

わりとネットとかでは、シンジくんはナイーブで、見ててイライラする主人公だとか言われているのを見かけます。

確かにアニメを観ている側からすれば、世界を救うヒーローになれていいじゃんと思ってしまいますが、当の本人からすればなんか適正値が高いからという理由で、よくわからんものに乗せられて、よくわからんものと戦わされて、人類の存亡の瀬戸際を任されて。

「ちょっと待ってくださいよ」と言いたくなりますよね。

でも、本人の心の整理が着くとか、そんなのお構いなしにヤバイ奴らが攻めてくるものだから、とりあえずやるしかないんです。

そう思うと、シンジくんはむしろめちゃまともで、めちゃたくましい人間だと思います。

 

シンジくんが大切にしたいのは身の回りの身近な事柄なんです。

家族とか、友達とか、自分のこととか。

でも、社会や世界はそんなこと気に留めてられないんです。

「どうでもいいこと」で片付けられて、踏み茶々食ってしまう。

それは、シンジくんにとってものすごく残酷で、すっごい傷つけられる。

しかも、その傷を癒して、自分を納得させる時間すらもらえない。

どんどん傷を増やしながら、踏ん張ることしかできないんですね。

それが大人になるということなのでしょうか。

 

大人というと、シンジくんの保護者的なポジションでもあるミサトさんも複雑ですよね。

ミサトさんってまさしく大人って感じな人で、普段はだらしないけど、仕事になるとキリッと真面目にこなす、ちゃんと切り替えができている人です。

というか、どちらかというと仕事側に寄っていますが。

だからですかね、シンジくんとはやっぱりうまく接することができない。

いや、家の中とかでは仲良く接することができるのですが、やっぱりミサトさんは仕事側の人間なんです。

保護者ならシンジくんを守らないといけない場面なんです。

「もう乗らなくていいよ、ゆっくり休みなさい」

そういう風に声をかけることができないんです。

シンジくんにはエヴァンゲリオンに乗ってもらわないといけない、最後の最後は仕事としてのミサトさんで接しなければならないのです。

その部分のミサトさん葛藤というのがとても味わい深い。

ミサトさんも、恐らくシンジくんと同じ目に合った人なんです。

世界に理不尽に殴られて、シンジくんが大切にしたいと思っているような部分を抑圧し、そのまま大人にならざるおえなくなった人なのです。

そう考えるとミサトさんのアニメクライマックスでの「行きなさい!シンジ君!誰かのためじゃない、あなた自身の願いのために!」というセリフは、仕事としてのミサトさんを投げ捨て、一人の人間として一人の人間であるシンジくんに心からの願いの言葉なように思います。

熱いですね。

 

エヴァンゲリオンって、めちゃくちゃぶっ飛んだ作品に見えますが、それ以上にちょっと気持ち悪いほど素朴に、人や世界の動きや考え、在り方を丁寧に描いている作品なんじゃないかと、勝手ながら思っております。

風船

 

風船には2種類の風船がある。

手を離すと飛んでいってしまう風船と、手を離すとゆっくり落ちていく風船だ。

どちらの風船も好きだけど、やっぱりちゃんと浮いている風船の方がいい。

いいんだけど、なかなか手に入れられる機会がないんだよなぁ。

 

浮く風船といえば、やはり誤って手を離してしまい、空へ飛ばしてしまうまでが恒例行事だろう。

あの虚しさと言ったら、子供ながらこんな残酷なことがあってよいものなのかと嘆いたものです。

あの感覚って、本当に他で味わったことのないくらいの喪失感です。

例えば、食べていたソフトクリームを落とす、これもなかなかに辛いものですが、でも落ちたソフトクリームは地面にあるんですね。

しかし風船は、最初は頑張れば届きそうな電柱くらいの高さかと思えば、次の瞬間にはビルの高さといった足がすくむところにまでいってしまう。

戻ってきて欲しい気持ちとは裏腹に、そんなのお構いなしで容赦なくどんどんと高度を上げて小さくなっていく。

それはまるで自分が下へ落ちていってしまっているような感覚でもあり、あのちっぽけな風船がいともたやすく自分が到達できない場所へいってしまうことに違和感を感じる。

そうしていくうちに風船を見失い、宇宙と地球の境目で1人寂しく飛んでいる風船を想像し、その風船に同情しながら仕方なくまた地上へと視点を戻すのである。

もはや、風船を持っていたという事実が嘘だったかのように、自分の手元から忽然と消え去るのである。

落ちたソフトクリームは目の前にはっきりと絶望があるとするなら、風船はその絶望すら見えなくなって消えてしまい、絶望に浸ることすらできずただただ愕然とする。

まさしく、夢見心地である。

 

風船を飛ばしてしまうことで空の高さを知り、あの自分の範疇を超えた手の届かない自分の無力感を知る。

虚しさと一緒に、1つ大人の階段を登ったような気がする。

風船が1つ空へ解き放たれるたびに、1人の子供が大人になっていっているのかもしれない。

休むはむつかしい

 

なんだかんだこのブログは2ヶ月くらい毎日頑張って書いていましたが、昨日はちょっとキツくなっちゃって休みました。

たった1日しか休んでいないのに、面白いことに今日こうしてブログを書こうとするとめちゃくちゃ久しぶりな感覚があって、なんか気分がいいですね。

たまには休んだ方がいいのは間違い無いのですが、いい感じに休むって難しいです。

よく学生の頃は課題に対して徹夜してやり切ろうとしていましたが、もちろん計画性がないということなんですが、それ以上に休むというのをうまく組み込めないというのもあった気がします。

いつ、どのように休めばいいかわからないから、じゃあ限界まで走ってしまおうと、そういう短絡的に考えてしまうのです。

休むというのは、ある意味怖いものです。

キリンの1日の睡眠時間は20分だそうです。

野生の動物は、外敵に襲われる危険性があるので、なかなか心の底からリラックスして休むことができません。

人はそういう外敵から襲われることも基本ありませんし、自分の家という安全な空間も確保しています。

しかし、それでも、足を止め、なにもしない、隙を見せるというのに不安感というのはあります。

そして、そんな心配が心のどこかに少しでもあったら…それこそ休むことも不完全になってしまいます。

「休む時間がある」と、「ちゃんと休めるか」というのは別問題です。

 

不貞寝って結構好きな感覚です。

「あーもう、しーらね!」って、もう諦めちゃって、ある意味究極的に気持ちよく休める気がします。

休むことについて悩んでも余計休めなくなるだけなのだから、結局とりあえずやって、やって、やって、んで「あーもうむりー」ってどっかのタイミングでスッとギブアップしてみる。

このギブアップのタイミングというのが結構ポイントになってくる気がします。

早いのもよろしくありませんが、私の友人にはどんなに苦しくてもギブアップしない人がいるので、それはそれでどうなのかと思ってしまいます。

いや、もう「そんなうまく休めるかってんだ」くらいの諦めのスタンスがいいです。

そこは非論理的なところに置いておく、それを許してしまうというのが大切なんじゃ無いでしょうか。