戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

できない学生


最近、教育現場のようなところにて仕事をさせてもらっています。
お給料はともかくとして、学生の視点と大人の視点の両方が見えるのがとても面白いです。
色んな人が沢山いる環境に身を置くと、人の色々な「いい動き」を見て吸収できるのもいいですね。
やっぱり、あんまり閉ざして引きこもるのはよくない。

自分のポジションとして、一応教育者側ではあるものの、気持ち的にはどちらかというと学生側寄ってしまうものです。
そのせいか、教育者側の動きに少し疑問を感じてしまう時があります。
具体的には書きませんが、「やれ」と言ったことに、学生が「できない」というリアクションが返ってきた時、ものすごく腹を立てているというか、「なんでできないんだろう」という態度を示す。
ただの愚痴として捉えればいいのかもしれませんが、そりゃあできないのが当たり前だと思うんです。
完璧と言える環境にしてもできないというのに、正直なところ学生にとってだいぶお粗末な環境であるのに、「私たちはちゃんとよくやっている」風を出せるなと、ちょっと思ってしまいます。
もちろん、皆決して悪い人ではなく、それどころか、頭が上がらないほどいい人なのは理解しています。
教育者側も大変で難しい環境の中、頑張っているのはひしひしと伝わってきます。
ですが、それは学生側も同じで、その間のいざこざをただの学生側の落ち度として話を進めてしまっては非常にもったいないと思ってしまいます。

「できない」とういことをただの学生の怠惰として片付けるのはまずいことです。
重要なのは、できないことより、それができない状況に陥っていること自体です。
そんな時にただ「なぜできないのか」とか、「やりなさい」と厳しく叱りつけるのは、状況を悪化させるだけです。
もちろんそれを良くすることは、正直第三者には何もできない程度に難しいです。
しかし、せめて悪化させる立ち回りをしない、これだけでも十分価値はあります。
それだけで、その人にはチャンスが残るんです。

学生の時なんて、気にせずに大人にいっぱい迷惑をかけまくっていいと思うんですよね。
むしろ、迷惑をかけないように気にしている方がもったいないんです。
もちろん、度合いはありますが。

メダカとインタラクティブ

 

私は今、メダカを飼っています。
とても可愛い奴らです。
餌をあげると狂ったように食いつきますし、そうやって元気な食いっぷりや泳ぎっぷりを眺めるだけで、なんだかこちらも元気になってきます。

しかし、当たり前ですが私とメダカ、ここにコミュニケーションというのは発生していません。
私が元気だなぁと眺めている姿は、本当はメダカにとっては苦しみの表現なのかもしれません。
そして、メダカもまた、私のことなんてそもそも認識しているかも怪しいです。
ですが、コミュニケーションが取れなくとも、私とメダカ、インタラクティブに関係を築くことはできます。
私はメダカを死なせながらも、何が彼らにとってよくないのか、どういう動きがよくない合図なのか、失敗と観察、仮説を繰り返しながら距離感を作っていきます。
メダカも、私が水槽の蓋を取ると餌がもらえることは理解しています。
それは、私という人間が何者なのかは知ったこっちゃありませんが、何度も何度も繰り返されていることで、規則性を把握しているのです。

私とメダカ、コミュニケーションは皆無ですが、お互いインタラクティブに要素要素を受け取り、お互いを理解しないまま関係性を築いているのです。
コミュニケーションができなくても、理解し合えなくても関係性は築けるというわけです。
むしろ、このインタラクティブでの関係の方が、清々しく健全だったりするものです。
生き物を世話するとは、そういう意味でも人にとってとても重要だと思います。

カルチャーとサブカルチャー

 

サブカルチャーって「サブ」ってついているからカルチャーの下位互換だったり、もう一つの小さいカルチャーみたいに思ってしまうけれど、それは少し違う気がする。
たとえ、今のカルチャーとされているものが撤退したとしても、サブカルチャーはカルチャーの立ち位置に来ることはないでしょう。
カルチャーとサブカルチャーというのは同じカルチャーでも、もはや対立的な立ち位置にあると思う。
カルチャーはなにか人の生に近い距離感だったり、身の回りの環境なんかに密接に関わってくるけど、サブカルチャーは間違っているかもしれないけど、そういったカルチャーに対する反骨心に近いものがある気がします。
カルチャーがもってしまっているデメリットを無視するために、逆の立ち位置からスタートし、築き上げていくのがサブカルチャーと言えばいいでしょうか。
だからどうも、人の生活とか環境とかには混じりきれないけど、それが目的でないから問題ないはずなのです。
カルチャーにおいての最優先事項が、サブカルチャーではおざなりにできのです。

サブカルチャーが大きくなっていくことはいいけれど、サブカルチャーをカルチャーの立ち位置にもっていくのは、たぶん違う。
ここら辺ちゃんと理解して線引きしないと、カルチャーもサブカルチャーもきちんと成長していかない気がします。

瞬間の判断

 

今の時代、スマホで調べれば大抵のことがわかる。
そうなるともはや勉強は無意味となるのでしょうか。
いや、しかし、知識がなければ「どのように検索すればいいのか」とか、検索したところでそこで出てきた情報をうまく処理できなかったり、掲載されている情報に誤りがあっても気づくことができないでしょう。
また、それ以上に「瞬間に劣る」という点が問題になってくると思います。
例えば、私たち掛け算は九の段まではスラスラ答えられます。
小学生の時に何度も繰り返しやって、身体に染み付いています。
電卓機能さえあれば、そんなことをしなくても簡単に掛け算の答えがわかるでしょう。
しかし、確かに「簡単」ではあるのですが、それには「入力」という手間があり、そもそも「電卓を用意する」手間があり、「片手を奪われる」手間がある。
電卓は誰でも簡単に扱うことができますが、それでも瞬間には劣るのです。
瞬間の重要性、それは大切な場面での判断というのは決まって「瞬間的」なものなのです。
電卓を用意する暇も与えず、「待った」も虚しくチャンスは無慈悲に流れていきます。
その丸裸での瞬間の判断こそが、その人の今後を決めていくのだと思います。
瞬間の判断、それはもはや直感的であり、感覚の後に論理がついてくるよう。
スマホとか便利だけど、流石にそこまでは面倒を見てくれないので注意です。

「布教」と遊び


「布教」、それは自分が好きなもの、ハマっているものを他者に話したりして勧めること。
割とオタク的な界隈でよく聞く言葉ですが、なぜ「布教」という言葉が使われているのでしょうか。
それは、いいものを見つけたから友人にも教えるといった「伝達」が目的ではなく、自分が浸っている遊戯空間に引き入れて、その「遊戯空間を拡張・補強」することが目的として強いからのように思います。
これは前回に書いた『「対立」と遊び』に通ずることで、対立では相手へのアクションや、その跳ね返りによって自分の所属を実感するのに対して、「布教」では他者に自分の所属しているものを認めてもらったり、所属に加わってもらうことで拡張し、所属を実感します。
所属することは、肩書き・役割を持ち、ある意味では演技すること。
そうすることで、自分自身を遊戯的に扱うことができるようになり、安定を持った上で気持ちよく全身で戯れに弾けることができます。
所属したところに人が増え、大きくなればなるほど所属している自身も拡張された感覚となり、より安定感も増します。
しかし、注意したいのが「布教」とは自分の都合でありますから、場合によっては相手に不快感を与えることにつながります。
他人を自分の遊び道具のように扱ってしまわぬよう、気をつけたいものです。

「対立」と遊び

 

きのこの山」と「たけのこの里」の論争がある。
きのこの山」が美味しいのか、「たけのこの里」が美味しいのか。

そんなのどっちも美味しいでいいじゃないか。
そう声を上げれば、平和的な真っ当な意見を言った気になるが、それは全くのお門違いであろう。
そんなこと、皆わかった上で「対立」しているのである。

ぶっちゃけ、皆「きのこの山」か「たけのこの里」のような、所詮お菓子にめちゃくちゃなこだわりがある人は極々一部だろう。
しかし、それでもあえて対立することで所属を実感し、その所属の中でお祭りのようにやんややんやと盛り上がるのが面白いのである。

逆に言えば、お菓子という、まぁそこまで大切じゃないことだからこそ、言ってしまえばどうでもいいことだからこそ、思い切って対立し合えるのである。
いわゆる、戯れ合いだろう。
そう、「対立」と言われると悪い言葉に聞こえるが、「対立」自体は実は人にとって結構面白い状況である。
そして、対立における相手とは「敵」ではなく、自分にとって優秀な「遊び相手」と言えるでしょう。
きのこの山」も「たけのこの里」がいなければ、他と同じチョコ菓子である。
サッカーとかも、相手がいなければただボールを持っている人である。
対立、すなわちお互いが正々堂々向き合っている構図。

そんな清々しい関係って実は結構ないんだよなぁって。
しかし、そんな「対立」の構造を悪用し出すと、本当に落ちるとこまで落ちてしまうものである…。

「ワイヤレスイヤホン」と「有線イヤホン」

もう結構前になりますが、ワイヤレスイヤホンなるものを買いました。
ただ、あんまり高いのを買うのも気がひけるので安物にしたのですが、ワイヤレスイヤホン起動音のようなものが若干ノイズとして聞こえてくるので、それがちょっと残念です。
ノイズと言っても、外出時なんかは環境音とかであまり気になりませんが。
でも、仕事仲間からの話によると、高いワイヤレスイヤホン はすごいらしい。
ちょっと興味あるけど、あんまりにも良過ぎるのも嫌かもなーって思ったり。

そういう話は置いておいて、ワイヤレスイヤホンを使うようになって、それまで心配していた充電の煩わしさとか、紛失しやすそうなんかは全然大丈夫だったのですが、今まで当たり前に満足して使っていた有線イヤホンのコードが煩わしくなってしまうという現象が起きてしまいました。
あんなちっぽけなコードですが、あれだけで自分の行動を大きく制限させられていたのだと、ワイヤレスイヤホンの自由さを感じたことで気づくわけで。

つまり、たったあれだけ耳に垂らしたコードで、人は無意識に影響を受けちゃっているわけです。
それは結構面白いなーと思いまして、例えば、踵から紐が垂れていたら、たぶん多少なりとも人は影響を受けて行動が変化するのかなと考えたり。
それなら、短パンと長ズボンってだけでも実は変わっているのでしょうか。

人って実は結構「演技」というのは身近にあって、周りの環境から身につけているものまで、色々な影響を受けて「演技」させられているのだと思います。
そう思うと、「まずは形から入る」とか、「まずは環境を変えろ」という理論もよくわかる気がします。
しかし、ただただ「演技させられる」ってのも違うなーと思うわけで。
自分の考えや状況に合わせて、時にはワイヤレスイヤホンにしたり、有線のイヤホンにしたり、そういった「演技する」という意志がなにより大切なんでしょうね。