「3匹のポケモン」と遊び
ポケットモンスター というゲームでは、最初に3匹のポケモンの中から1匹を選ばさせられます。
物語における一番最初の相棒ですから、やっぱりこだわりたいものです。
なにより、選ばなかった2匹は、基本的にその後のプレイでは入手が難しくなるので、より一層どの1匹にするのか悩みます。
でも、そこでぐるぐると悩むのが楽しいものなのです。
しかし、最初の選択肢が3匹ではなく、極端な話だが300匹の中からとなると、言うまでもなくめちゃくちゃ大変です。
選ばなかった299匹がもう手に入らないとなると、その中から1匹を選ぶという行為はものすごく重くなってしまうし、そこでの重苦しい悩みって、楽しさよりしんどさが勝ってしまいそうです。
2つの中から選ぶのか、3つの中から選ぶのか、5つの中から選ぶのか…。
たったこれだけのことでも、選択の難しさも、感覚も、面白さも変わってきてしまうのです。
ただ、多様的にすれば面白くなるということはないのです。
その場面に合わせた選択のデザインこそが、なにより重要なのです。
実際、ポケモンの総数は何百といるわけで、その中から自分が連れ歩けるのは6匹のみです。
しかし、それはいきなりドーンと何百と選択肢を用意するのではなく、ゲームの物語・冒険を進めていく中で少しずつ選択肢が増えていきますし、メンバーを入れ替えようと思えばいつでも気軽に組み替えることができます。
そういう状況で、むしろ「全部でポケモンが10匹しかいないよー」となると、全然ワクワクできないわけです。
この差というのが実に興味深く思います。
「拡張」と遊び
映画館の仕事で館内にアナウンスをしなくてはならない時がある。
このアナウンスというのが、結構楽しい、というか気持ちがいい。
普段会話とかで喋ることを意識することなんてないのに、こうしてアナウンスで聞こえやすくハキハキと喋ろうとすると、急にイントネーションがわからなくなったり、うまく喋れなくなってしまう。
あれですね、その喋る内容も自分の言葉ではなく、名も知らぬ誰かが考えた文章を読み上げないといけないから、それも合間って難しい。
だからこそ、噛まずにスラスラ綺麗にアナウンスできた時は、満足気にマイクを下ろします。
逆に、少しでも噛むと、そのミスが大きな声で館内に響き渡るので、ものすごい恥ずかしいものです。
そのスリルも嫌いじゃないけれど。
アナウンスの面白さとして、「拡張性」というのがある気がします。
自分のアクションが、何か媒体を通すことで拡張され、大きな動きとして現れる。
自動車のアクセルも、軽く踏むだけで人が到底追いつけないスピードにまでなってしまう、その「拡張性」が気持ちがいい。
「拡張」させることで、普段気づかないような小さな誤差が大きく現れ、そうしてそれと「戯れられるようになる」とも言える。
また、小さなアクションで済むということも大事で、これが必死にならないと現れないのであれば、そのアクション自体にエネルギーをかけすぎて、現れたものと戯れる余裕がなくなってしまう。
コンピューターゲームなんかも、ボタンを押すとか、スティックを倒すとか、そういう指の動きという小さなアクションで済むからこそ、画面の世界に思い存分戯れるわけです。
そういう意味では、コントローラーの小さな操作を、画面の大きな動きへと拡張させているとも言えます。
小さすぎてよくわからないものは大きくしてみて、大きすぎてよくわからないものは小さくしてみる。
なにより、わかることが大切らしい。
「いい理由」を持つ
当たり前なんですが、物事なんでも理由がないと動けないものです。
私たちがご飯を食べるのも、トイレに行くのも、遊びたいのも、理由があるんです。
だから、生きていることにも、自分の存在価値にも理由を欲してしまうのでしょうか。
そう、逆に言えば「理由さえあれば、なんだってできる」とも言えます。
どんな残虐なことでも、なにかちゃんとした理由があれば人はやれてしまう。
そう思うと、「なにをするか」を考えるより、それを「する理由」を考える方がいいんじゃないかと思う。
ただ、理由はなんでもいいというわけではない。
自分が心の底から納得できる理由でなければならないし、なにより「どのような理由を持つか」でその人というのは決まってしまうものだったりする。
たとえ、同じことをしていたとしても、それをただ「やらないと怒られるから」という理由でやるのと、「こうするとどうなるか興味が沸いたから」という理由でやるのとは、たとえ同じ過程・同じ結果となったとしても、その人たちが進んだ道のりは恐ろしく違ってくる。
そう思うと、良き歩みをしたいのであれば、「良き理由」を携えなければならないのだろう。
理由はなんだっていいけど、なんだっていいわけなじゃない。
「自分と他人」と遊び
サッカーにおいて、そのフィールドの中で駆け回っている自分というのは紛れもなく「自分」だ。
そして、その周りの他プレイヤーは「他人」であろう。
しかし、自分のチームメンバーというのは、「他人」であるが「自分」でもある。
自分のチームがゴールを入れれば自分ごとのように嬉しいし、逆にゴールを入れられてしまったら自分ごとのように悔しい。
ボードゲームにおいて、そのゲームをしている私自身というのは紛れもない「自分」で、そのゲームを一緒にしている対戦者たちは「他人」であろう。
しかし、たしかにボードゲームには勝ち負けがあり、相手プレイヤーというのは自分にとって敵であるが、その関係が本当に啀み合い始めたらおそらくボードゲーム をやめてしまうだろう。
お互いが勝利を求めて切磋琢磨し合うのだが、その中でのメンバー同士でのやりとりを楽しむというのが、ルールには書かれてはいないけれど一番重要なのでしょう。
そこには、みんなでボードゲーム を囲む一体感があり、そこでの「みんな」の意識は、「他人」であるはずなのに「自分」に近いようにも感じてしまう。
ポケモンにおいて、ゲーム機を握り、画面内の世界に夢中になりながら操作している私は紛れもない「自分」である。
そして、その画面に映る自分が操作するキャラクターは「自分」でもあり、「他人」でもある。
さらに、そのキャラクターが扱うポケモンというキャラクターは、もう一つ「他人」側に傾いているように感じる。
ポケモンの面白さの一つは、この「自分」と「他人」のグラデーションの部分のように思う。
「自分」とは主観的、内から外側へ向けた目線。
「他人」とは客観的、外から内側へ向けた目線。
それらが入り混じることで、私たちは自分の身体を忘れて色々な感覚知へひょいひょいと旅へ出かけることができる。
それができるとどんなものにも比べられないくらい自由を感じる。
そこの行き来だけでも、十分遊びになりうるのではないかと思う。
「同じ」と遊び
昔、ドラマの登場人物がスパッと首を刃物で切るシーンを観たとき、観ている自分の首筋がヒヤリと感じて、つい手で抑えてしまった。
自分の首筋を切るなんて、例えどんなに追い込まれた状況であれ、それをやってのける度胸はできそうもない。
いや、しない方がいいのだろうけど。
この実際やってもいないのに観ているだけで、まるで自分もやったかのように感じるというのは、その観ている対象と自分が「同じ」だと認識しているからだろう。
たとえ草木が切られていたとしても、それに対して自分が切られたようには感じず、むしろそれを切っている人たちの感覚と共鳴するだろう。
同じ形ではなくても魚とか虫とか、頭とか手とか、そういった同じようなパーツがあると共感できなくもない。
魚でも、活発に餌を食べている様子を見ていると、なんだかこっちも嬉しくなる。
「同じ」という言葉を使うと「同じか・同じじゃないか」の二択のように聞こえるが、実際は「ここは違うけどここは同じ」といったようなグラデーションになっている。
この「同じと感じる度合い」によって、それに対する感じ方・見方・扱い方・捉え方が決まってくるのだと思う。
そもそも、「同じか・同じじゃないか」なんて見方次第でいくらでも変えられてしまう。
物事に「完全に同じ」と「完全に違う」は存在しない。
だからこそ、「どこに注目してもらうか」が大切になってくる。
人と全く違うように見える草木も、同じように生きている存在であるから、やっぱり枯れている様子をまじまじと見せつけられると、なんだかこちらも萎れた気分になる。
人と同じように動いて生きている魚も、姿造りで出されるとグロさより「美味しそう」が勝ってしまう。
このことは不思議で、なによりとても面白いことだ。
この「同じと思う感覚」が曖昧だからこそ、人は色んなことを想像し、色んなものを創造しているのだと思う。
「リセット」と遊び
もしも、子供時代に戻れるとしたら、もう少しちゃんと勉強したかったな。
部活も、変に堅苦しくやってたけど、もう少し気楽に楽しめたんじゃないかな。
しかし、いくら考えても子供時代には戻ることはできない。
けれど、遊びの中でなら、いつもで最初からに戻すことができる。
ボードゲームの人生ゲームだって、例えルーレットの出目が悪くて借金だらけで終わったとしても、もう一度最初から、やろうと思えば始め直すことができる。
過去の反省を活かし、より良い人生を歩むチャレンジをすることができる。
逆に言えば、リセットがされることを知っているからこそ、気軽にかつ純粋にそのゲームを楽しむことができるとも言える。
リセットがあるからこそ次があり、今の結果を受け止め、ゲームを終わらすことができる。
リセットがあるからこそ、現実ではやらないようなおふざけやビックなチャレンジを、遊び心をぶつけられる。
「リセット」というのは、遊びにおいて主役を張った要素ではないが、そもそもこのリセットがあるからこそ、1つ遊びは成り立つのかもしれない。
リセットできるは価値なんです。
「わかる」「わからない」と遊び
遊びというのは最後の最後まで結末がわかってはいけない。
対戦ものの遊びにおいても、途中では結果がはっきり見えないようになっていたり、負けそうになっている側が有利になる要素や、一発逆転の何かがあるようになっている。
それは、そうしないと負けている側が不貞腐れてやめてしまうからというのもあるが、遊びというのは「わかってしまう」その時点で終わってしまうのである。
わかってしまっては、もうそれ以上遊ぶ必要がなくなってしまうのだ。
それならば、例え遊びの途中であっても、新しく遊びを始めるか、違う遊びを始めた方がいい。
これは遊びの感覚の不思議なところである。
普通、わからない状態というのは嫌がるはずなのだ。
私たちは普通、家の中で暮らし、その中が安全だと「わかっている」からリラックスできる。
しかし、それが山の中で野宿となると、もしかすると野生動物に襲われるかもしれないし、天候が悪化するかもしれない。
不安定で、信用ができず、非常に怖い状態。
しかし、遊びにおける「わからない状態」というのは、山の中の野宿ではなく、家の中の安全な「わかっている状態」の中で繰り広げられる「わからない」なのである。
ある意味、擬似的なわからない状態。
遊びが終わればすぐにこの安全な「わかっている状態」になる、その信用があるからこそ、不安定を楽しむことができるのであろう。
また、遊びを続けるには「わからない」ようにする必要があると同時に、逆遊びを終わらせるには「わかる」ようにすればいいとも言える。
遊びというのは前述したように「わかっている状態」に戻ってこれるからこそ安心して遊べるわけであって、逆に遊びがしっかりと終わらず、「わかっている状態」に戻らせてくれない遊びというのはとても厄介なのだ。
そういう遊びというのは、プレイヤーが努力してうまく折り合いを付ける羽目になって、それは余計エネルギーを使ってしまうし、常にブレーキを意識してしまうから純粋に気持ちよく遊ぶことができなくしてしまう。
しっかり終われるということは、遊びにおいて信用を得ることであり、それは実はより一層遊ばれる環境に繋げられるのではないかと思う。
そして、プレイヤーが気持ちよく遊びを終えるためには、しっかり「わかる」状態を作り出す必要がある。