「時間制限」と遊び
なんの変哲もない日常の行動も、無意識の中でもできてしまっていたことも、いざ「時間制限」が設けられるとたちまち感覚が変わってしまう。
なんとなくだった意識が、「早くしなければ」と目的を持ち、1つ1つの行動に意識がいきだす。
それができないと「なんで?」と考えるようになり、どこが問題点か探したりする。
時間内に終わらしたいけど、焦るとむしろミスして遅くなってしまう。
冷静でありながら、効率的に、自分を繊細にコントロールしてこなそうとする。
その繊細な感覚調整というのは、なにか生の実感に感じるところがある。
「時間」という軸が生まれることで、自分の行為に正解と誤りがはっきりと現れるようになる。
「わかりやすく、はっきりしている」というのは素晴らしいことだ。
なんせ、世の中、私たちの身の回りの事柄、はっきりとわからないものだらけだ。
話している相手が本当は何を考えているのか、就活で内定がもらえるのか、自分がいつ死んでしまうのか、今の選択が本当に正しいのか…。
すべてわからないことなのである。
そんな一個人がどうしよもないわからないことを、どうにかしようとするのは本当に大変だし、辛い。
だからこそ、はっきりわかるものは嬉しい。
50m走でクラスで一番早いタイムを持つ、このタイムというのは揺るぎない事実だ。
身長であいつより高いというのも、紛れもない事実だ。
そのルールの枠組み内だけの話だが、それでもそこでは正と誤がはっきりと現れる。
そして、自分の努力がはっきりと数値で良くなっていることがわかるのも、とてつもなく嬉しい。
「時間制限」をされることで、ようやくなんとなく流れている「時間」というのを強く認識する。
それは短いほどはっきりと認識できる。
基本的に物事は大きくなればなるほどよくわからなくなる。
人にとって丁度いい、見合ったサイズ感というのがどうもあるらしい。
時間も同じだ。
「制限」というのは、なんでもかんでもかければいいってもんじゃない。
「制限」のバランスというのも大事だが、そもそもその「制限」に納得してもらう必要がある。
「時間」というのは全人類の共通認識であるし、生きている以上どう足掻いても人とは切っても切れない縁だからこそ、「制限」をかける上で扱いやすく、わかりやすい。
いや、逆にどんな物事にも「時間制限」というのは生まれてしまっているとも言える。
時間というのは全人類の共通の通貨であるとも言える。
その時間を奪うというのは、それだけで重いものでもある。
だからこそ、「時間制限」はしっかりデザインしたい。
もっと「時間制限」ということにシビアに考えないと、面白いものは作れないのかもしれない。