戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「制限」と遊び

 

「制限」と聞くと何か抑圧されたイメージがあって、嫌な気持ちになってしまうが、制限があるからこそ人々は安定することができるとも言える。

もし、この地球に重力という制限がなければ、もっともっと自由に動き回れるかもしれないが、地面の上に立って安定することはできない。

制限というのも悪くない、というかむしろ素晴らしい。

世の中が良くなって、便利になって、多様化すればするほど自由になって。

それっていいことなんだろうけど、同時にものすごい不安定化する。

これはなんの根拠もないが、今の世の中で言われている「ストレス社会」というのは、実はこの「不安定さ」によって引き起こされているような気がする。

制限の多い世界を良くするために、色々と発展されて自由になって、そして今度求められるのは、このフワッとしてしまった世界からもう一度足を付くべく、安定化させる「制限のデザイン」というものなのではないかと思う。

それは、もしかするとAIとかより求められることなのかもしれない。

 

制限をデザインをする上で重要な事柄がある。

制限の「風貌」と「強度」だ。

正直、うまく言葉にできる自信がないのだが、なんとなくで読んでいただきたい。

まず、「自分に制限を自分で与える」これはとても難しい。

なんでかというと、自分の制限を自分で作ってしまうと、自分が制限より強い立場に立ってしまうからだ。

そして、作った本人だから、制限の正体をよく理解してしまっている。

なんでこの制限にしたのか、どういう構造をしているのか。

理解しているからこそ、自分の作った制限の壊し方も、よく理解してしまっているのだ。

制限の良さというのは、その制限内ではっきりとした正と誤を持ちながら試行錯誤ができることだ。

しかし、制限より自分の方が強いと、その枠組みを簡単に壊し、柔軟なズルができてしまう。

外に出て行ってしまったら、もはや制限内のルールで物事を判断することができなくなってしまう。

制限の持つ良さは失われる。

簡単に壊れてしまう制限は、もはや制限とは言えない。

 

制限というのは安定していて、信用ができて、強くなければいけない。

納得して、安心して寄り掛かれる、安心して踏み込める大地でなければいけない。

そして、制限の実際の強さだけでなく、その風貌、極端に言うと崇められる王様のような、そういう圧倒的な存在感も実は必要なのではないかとも考える。

これは色々言えると思う。

ミステリアスだったり、絶対的だったり、背徳的だったり。

制限内での私は、制限の中での一つのギミックに過ぎない。

自分をそこまで陥れても良いと思える、そんな「何か」もまた必要で、その納得があってこそ、初めて制限内の大地を味わい尽くせるのではないだろうか。

 

もっと簡単に言ってしまおう、制限には「理由」がいる。

この「理由」がちゃんと筋が通っていて、魅力的で、納得できるほど、制限の強度も上がり、制限内を楽しめるのである。

しかし、理由がはっきりして欲しいと同時に、内部はどこか「未知」でなければならない。

わかってしまうとプレイヤーは何か興が覚めてしまい、制限の魔力はみるみる落ちてしまい、プレイヤーは制限内の行動ではなく、制限を壊す方へ動いてしまう。

 

制限を打開する、それ自体も一つの魅力的な遊びとも言えるだろう。

しかし、それは制限内の遊びを否定する行為になりがちなので、制限内を楽しんでいる人たちはそういう人たちを目の敵にする。

そこらへんが難しい。

 

自分に向けて自分で制限を設けるのは難しいと書いたが、制限の重要なポイントを理解していれば、自分をうまく抑えられる制限というのは作れるのではないかと思う。

やっぱり、自分に合った制限というのは、自分がよくわかっているんです。