戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「ものづくり」が下手


大学では「ものづくり」を学んできた。

しかし、当時の私はまったくもって「ものづくり」ができなかった。

それは技術的な問題でも、金銭的な問題でもない。

ただ「成功させよう」と思っていたからではないかと思う。

 

「成功」とは何か。

人に評価される作品か?

人に評価される作品ってなんだ?
そんなの知るわけない。

それは他人の評価軸なんだから、私が知り得る事柄ではない。

わかるはずのないことなのに、それをわかろうとグルグルする。

考えることは無駄じゃないが、この意味のない思考の堂々巡りは本当に無意味。

考えるのは作品を見せる相手ではなく、作品自体だ。

 

私は「すごいもの」を作りたがっていた。

そう思うがあまり、「すごそうにみえる」ようにするのを頑張ってしまっていた。

作った作品を他人に見せて、つまらなそうな顔をされるのは身が引き千切れるくらい辛い。

だからつい、しょうもなく見えないように、誤魔化しに力を入れてしまう。

単純に怖いのである。

怖いのは仕方ない。

しかし、怖がるがあまり、素敵なポイントをボロボロ見落としてしまっては意味がない。

 

それでは絶対に面白いものは作れない。

重要だったのは、その「しょうもない」を「しょうもないまま置く」こと。

それを怖がらずに堂々とやること。

なんでもかんでもはっきりさせようとせず、またはっきりと見えているものばかり扱おうとしない。

よくわからないものを、わからないまま上手く置くことが出来るのが「ものづくり」の良さだと思う。

論文とかだとこうはいかない。

 

「ものづくり」はどうしても最後ゴールばかり意識してしまうが、結局はスタート、そこでの姿勢や地点で大体決まってしまう気がする。

スタートがうまく決まれば、自ずとどの道を選べばいいか、どんな感じで進んでいけばいいかわかる。

しかし、ビビってズルして中途半端な位置からスタートすると、走っている意味を見失う。

しかし、それでもいい。

ビビらずに行けと言われても、ビビる時はビビる。

そういう時もある。

しかし、その失敗したものを、そのまま失敗として置かないといけない。

そこで失敗を誤魔化して成功のように見せてしまったら、もうそのクリエイティブに得れることがなくなってしまう。

それこそ、次へ何もつながらない、本当の失敗だろう。

 

うーん、えらいフワッとした感じだが、結局はよくわからないなあ。

しかしまあ、今はそれが自分の限界なんだろう。

ということで、そのまま文章として置いておこうとする…。