考えて切ってしまったら、つまらない。
なにか小難しいことを考えることや、それについて話すことは好きです。
しかし、「ものをつくる」時にそういった行為はあまりしたくありません。
なんだったら、それがクリエイティブの邪魔になってしまう時すらあります。
こういったクリエイティブを前に、議論や企画をせっせとやりすぎると、「わかった状態」から手を動かす羽目になります。
「わかった」とは言ったものの、正しくは「わかった気でいる状態」のことです。
そもそも、議論や企画でやれるのは限界があって、それ以上のことは「やってみないとわからない」はずなのです。
物事をうまく押し進めたい、綺麗に済ませたいがあまり、この決して断定できない領域まで決めてしまいたくなるものです。
「わかった状態」からクリエイティブを始めてしまうのが悪いか良いのか知りませんが、個人的には「つまらない」ように感じてしまいます。
議論や企画で完璧まで詰めてしまうと、もうそこでゴールしてしまっており、その後クリエイティブの活動が「それ以下」になってしまうのです。
仕事なんかだったら、それでもやれたりするものですが、自主制作のような、プライベート的な活動でしたら相当キツイものとなってしまいます。
むしろその場合、自分を「知らない状態」にする方が大切になってきます。
私はクリエイティブは「どうなるかわからないから作ってみる」という、実験的な感覚が活動の根源になってくると思っています。
どう花咲くか未知数だからこそ「期待」が生まれ、「わからない」からこそ、一つ一つのクリエイティブな行為に丁寧に向き合っていけるものです。
最初の議論や企画に必要なのは「そこに宝がある」という認識で、そこから先は宝がある方へ進みつつ、やってくる荒波に合わせて「良い方向」になるように手繰り寄せるように選択していくことです。
そこには直感的で、LIVE的な判断が重きにあります。
そうしていく中で自ずとしっかりとした議論や企画をするタイミングがやってくるもので、やるにしてもきっと後なんだと思います。
「自己顕示」と「カムフラージュ」
どこかの本で、生き物の防衛手段は「カムフラージュ」と「自己顕示」の2つであると書かれていたことが心の残っています。
なんの本だったかは忘れましたけど。
「カムフラージュ」は、環境に溶け込み、敵から見つからないようにする作戦。
「自己顕示」は、毒ガエルのなんとも毒々しい模様のように、敵に自分が強いことや、危険であることを演出・アピールする作戦。
そして、この相反する2つの作戦は、その時代や状況、自身の形状やその生活スタイルなんかで、どちらが最適か決まってくるわけです。
実は人の戦闘スタイルというのも、時代によって「自己顕示」から「カムフラージュ」へと変化しているのです。
原始的な時代ですと、道具を使った近接戦闘が基本なので、相手の武器の攻撃から守る防具が必要と同時に、相手に対する威嚇的なデザインも重要となってきます。
今を生きる私たちにとって、昔の人たちの戦闘服の過多に感じる模様や装飾は、もはや滑稽にすら見えてきますが、しかし、実際に本気の命をやりとりをする状況で、目の前にあの禍々しい身なりをした得体の知れない人たちと至近距離で殴り合うとなると、やはり恐ろしさを感じてしまいます。
この「恐ろしさ」という心の隙が、近接戦闘の勝敗に大きく作用してくるでしょう。
しかし、技術が発展し、武器が手軽な遠距離攻撃が可能になってきてからは、一変して「カムフラージュ」へと身なりのデザインが変わってきます。
銃の前では、「自己顕示」の魔力の効果も薄まり、それ以上に相手に見つからずに遠距離から攻撃するほうが戦闘において有利になってしまったのです。
たしかに、現代の軍人さんの服のデザインは、完全に「カムフラージュ」としての機能に全振りされているように見えます。
そう思うと、今見るとおかしく感じるものも、当時はとても合理的だったというのがよくわかります。
そう考えると、若い人が明るく派手な服を着て、歳をとると落ち着いた地味な服を着るようになるのは、まさしく「自己顕示」から「カムフラージュ」へと変化しているように思います。
生命力溢れる若い時代は、その生命力を見せつける、またはそれ以上にアピールするようなスタイルであり、歳を取り、身動きも取りづらくなり始めると、地味な服、いわゆる自然環境に近い服装にすることで、なにか身を隠すようなスタイルになっているように感じます。
なにか、敵から身を守る意識というのはないけれど、ここらへん無意識に変化しているのかもしれません。
「自己顕示」と「カムフラージュ」の軸で物事を観察してみるのも大変面白いのかもしれません。
「もぎたてチンクルのばら色ルッピーランド」という遊び
コンピューターゲームは好きだけど、かの有名なゼルダシリーズはあまりやってきませんでした。
タイミングが合わなかったのもありますが、実はあんまり手を伸ばすほどやりたいとも思わなかったし、せっかくだしと何個かやってみたものの、あんまり長続きしませんでした。
面白いのは間違いないのですが、どうも自分とは相性がよろしくないらしい。
残念です。
しかし、そんな中で唯一、クリアするまでやり込んだゼルダのゲームがあります。
「もぎたてチンクルのばら色ルッピーランド」です。
…あんまり詳しくないのですが、このゲームってゼルダシリーズに入るんでしょうか?
まぁ、いいです。
このゲームでは、リンクのようなカッコイイ勇者が主人公ではなく、薄汚れた35歳独身のおじさんが主人公なんです。
もうこの時点で「なんだこれは」と興味がそそるのですが、何よりこのゲームの恐ろしさは、ゲームであるのに、RPGであるのに、「お金がすべて」を体現したような、なんとも夢のない世界観であることです。
お金がHPゲージ代わりであることもさることながら、住民の話を聞くのにもお金が必要になってきます。
少ない金額を提示すると無視するくせに、たくさん出せば別人かのように明るく接してくる大人の姿は、当時子供ながらヒリつくような衝撃がありました。
そういう「お金の交渉」が基盤としてあるわけで、攻めすぎると交渉が決別して大損し、守りに入りすぎても巻き上げられるという、なんとも残酷すぎる駆け引きがたまらないゲームです。
特に衝撃的な思い出として、とあるストーリーにて、いい感じに感動する終わり方を迎え、しんみり、ほっこりしていたところ、「さぁ、いくら報酬欲しい?」と、余韻をぶち殺してバンッと冷酷な「お金の交渉」が始まった時は、「このゲーム、すげぇやぁ…」と渇いた笑いがこみ上げてしまいました。
ゲームのようなフィクションの世界だからこそ、勇者になりたい!とか、カッコよくありたい!とか、そういう綺麗な世界を味わいというのがありますが、逆にゲームの世界だからこそ、現実では味わいたくないような汚いものを味わってみたいという気持ちもあるものです。
なんだったら、なんでもかんでも上手くできるようになっているとか、気持ちよくプレイできるようになっているとか、「すごい!」ってゲーム側が褒めてくるような、そういうちょっと気持ちが悪いくらい綺麗ってのは言い過ぎだけれど、そういうのはなんか余計に空虚に感じてしまうところがあります。
だからこそ、ゲーム側がある種残酷さを持ってプレイヤーを蹴落としてくるほうが、そこにリアリティが湧くといいますか、なにか馴染むようなものがある気がします。
「あわよくば」の落とし穴
「あわよくば」を狙ってみる。
それは、とても賢いやり方と言えるでしょう。
あわよくば、盛り上がって人気が出る。
あわよくば、バレずに難を逃れられる。
そうやって、一つの希望を残しておくことで、悪い確率を下げて、良い確率を上げられる。
「あわよくば」を狙ってみる。
しかし、それは汚らしい姿勢とも言えるでしょう。
「あわよくば」の可能性を残すことで、本来が持つ可能性というのを殺してしまうのです。
大事な場面ほど、失敗を恐れて「あわよくば」を考えてしまう。
いや、どうでもいい場面こそ、気を抜いて欲をかまけて「あわよくば」をばら撒いてしまうのか。
「あわよくば」と「策を用意する」は違うんです。
「策を用意する」には責任があるんです。
はっきりとした「策」を提示し、責任を持って実行する。
しかし、「あわよくば」というのは、欲にかまけて手をつけるだけなんです。
たとえ、それがダメだったらスッと手を引いて知らん顔をすればいいのです。
非常にずるいですが、賢いとも言えます。
なにせ、自分を失敗しないポジションに置くのだから。
しかし、まあ、「あわよくば」っているのはどういう結果であれ、何も進んでいないと言えます。
いわゆる「その場しのぎ」ってやつです。
そりゃそうです、動かずに手だけチラッと触っておいているだけなのだから。
「策を用意する」というのは結果がどうであれ、一歩踏み込んでいるわけですから、進歩につながります。
この2つって、他者からすればどちらも同じに見えるけど、本人からすれば全然違うものなのです。
「あわよくば」で進んでいるつもりになっていたら、そりゃとんだ幸せ者でしょう。
はい、気をつけます。
「縛りプレイ」と遊び
面白くてたまらないゲームは、時間が流れてしまうことに怒りを覚えるほど夢中に遊んでしまう。
なんなら、そのゲームをしていない時も、頭の中はそのゲームのことを考えている。
こういう風に夢中になってしまっているのは、依存とか、そういう単調な現象ではなくて、まるでなくなっていた片方の靴が見つかったように嬉しく、それを履いて思う存分に走り回りたいのである。
そのやっと見つけた靴を、味わい尽くしたいのである。
しかし、そんな風に夢中になってやりまくれば、残酷にもゲームの終わりもすぐにやってきてしまうものだ。
終わりというのは悲しい。
いいゲームというのは、終わりというのも美しく、それもまた楽しみたいものだが、けれど、私の心はまったく終わりを迎えていないのである。
この時、ゲームの終わり、またも名も限界を把握した時、人はその限界を越えようとする。
そのゲームの枠組みから飛び出し、その飛び出した部分もそのゲームの一部として扱い出すのである。
ゲームというのはリセットできても、プレイヤー自身の記憶は消すことはできない。
だからこそ、そのゲームをまた初々しいゲームとして向き合えるようにするために、そのゲームの中に知らない部分を作る。
新たな余白を作る。
その行為はもはや、プレイヤーでもあり、クリエイター側に立っているに近い。
お気に入りだったゲームの次回作が面白くなかった時、プレイヤーを怒りを覚える。
それは、面白いゲームほど、プレイヤーはもはやそのゲームのクリエイターに部分的になってしまっているからだと思う。
兎にも角にも、このプレイヤーの遊びの限界からの跳躍は、その遊びから見ても願ったり叶ったりでもある。
こうして、その遊びは構成された以上の要素を取り込み、そこの見えない深みを作り上げていく。
ある意味、それこそ真の遊びの完成なのかもしれない。
「ガチャガチャ」と遊び
スーパーでアルバイトをしていた時期がある。
そのスーパーにはレジの先にガチャガチャがあった。
その配置は見事なもので、親が会計をしている間に、暇になった子供が吸い寄せられるようにガチャガチャへ向かい、駄々をこね始める現場を何度とも見てきた。
スーパー側的には賢い配置と言えるが、こう、親と子が揉める中レジ業務に励むのはあまり気持ちがいいものではなかったので、ちょっと嫌だった。
それにしても、ガチャガチャというのは面白い。
中の景品や、その偶然性もさることながら、あのお金を入れたあと、レバーをグルグル回るのが面白い。
もし、お金を入れたらポロッと景品が落ちてくる仕組みだと興醒めはなはだしいだろう。
あの、祈るようにレバーを回すという行為が挟まるからこそ、結果のインパクトが出てくるわけだ。
そう、結果発表のドラムロールと同じ。
また、レバーの感触も名前の通り「ガチャガチャ」と、重く、抵抗感のあるというのもとても大切だろう。
あの感触が、スルーと軽く回転してしまっては、まったくもって気分が乗らないだろう。
これもまた、よくできた遊びの演出と言える。
「共感」という言葉がやたらと出回っていて大事にされているが、どちらかというとプレイヤーの想いとそのプレイが合わさるような「共鳴」的なものの方が大切なんじゃないかなーって、ガチャガチャについて考えながら思いました。
「クソゲー」と遊び
「人生はクソゲーだ」という言葉がある。
本当に人生がクソなのか、そうではないのか、それはよくわかりません。
しかし、人生をクソゲーとして置くと楽ではあると思う。
逆に、人生が神ゲーだったとすると、文句が言えなくなってしまう。
何か嫌なことがあったり、自分の失敗なんかも、全部自分のせいとなってしまいます。
神ゲーというのは面白いと同時に、なにか重さ、しんどさというのも感じてしまう時があります。
実際、無性にクソゲーにハマってしまう時期があります。
「クソだなぁ」と思いながら、やめずに黙々と続けてしまう。
そこにはクソゲーだからこその心地よさがあります。
自分がクソだと認めているものに腰を下ろすからこそ、そのクソの中での自分の行為は空っぽとなり、からっぽだからこそ何も考えず、何も期待せず、ある意味肩の荷を下ろして現実逃避ができるのです。
そう思うと、「クソゲー」というのも悪くないものです。
なんだったら、クソゲーだからこその可能性すらあるのです。
もっとクソゲーを愛しましょう。