「縛りプレイ」と遊び
面白くてたまらないゲームは、時間が流れてしまうことに怒りを覚えるほど夢中に遊んでしまう。
なんなら、そのゲームをしていない時も、頭の中はそのゲームのことを考えている。
こういう風に夢中になってしまっているのは、依存とか、そういう単調な現象ではなくて、まるでなくなっていた片方の靴が見つかったように嬉しく、それを履いて思う存分に走り回りたいのである。
そのやっと見つけた靴を、味わい尽くしたいのである。
しかし、そんな風に夢中になってやりまくれば、残酷にもゲームの終わりもすぐにやってきてしまうものだ。
終わりというのは悲しい。
いいゲームというのは、終わりというのも美しく、それもまた楽しみたいものだが、けれど、私の心はまったく終わりを迎えていないのである。
この時、ゲームの終わり、またも名も限界を把握した時、人はその限界を越えようとする。
そのゲームの枠組みから飛び出し、その飛び出した部分もそのゲームの一部として扱い出すのである。
ゲームというのはリセットできても、プレイヤー自身の記憶は消すことはできない。
だからこそ、そのゲームをまた初々しいゲームとして向き合えるようにするために、そのゲームの中に知らない部分を作る。
新たな余白を作る。
その行為はもはや、プレイヤーでもあり、クリエイター側に立っているに近い。
お気に入りだったゲームの次回作が面白くなかった時、プレイヤーを怒りを覚える。
それは、面白いゲームほど、プレイヤーはもはやそのゲームのクリエイターに部分的になってしまっているからだと思う。
兎にも角にも、このプレイヤーの遊びの限界からの跳躍は、その遊びから見ても願ったり叶ったりでもある。
こうして、その遊びは構成された以上の要素を取り込み、そこの見えない深みを作り上げていく。
ある意味、それこそ真の遊びの完成なのかもしれない。