戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

信頼と強度のトランプ

どこかの話で、昔トランプは紙でできていたというのを聞いたことがある。

それが、どこかのタイミングであの硬いプラスチック性が作られ、それが人気となり主流になったらしい。

私としては、プラスチックのトランプしか触ったことがないが、確かに紙よりプラスチックの方がいいのは、なんとなく想像でわかる気がする。

 

カードの中でも、トランプは特にいい。

あの絶妙な硬さと光沢は美しいし、何より信頼できる。

カードの特性として裏表があり、カードゲームなんかはその特性を利用して色々な遊びが作られている。

表に情報が記載されており、裏にすることでそれを隠すことができる。

この「隠す」というのが、トランプやその他カードゲームにおいて重要な役割をしているのだろう。

 

しかし、この「隠す」というのがちゃんと信用できる、または強度を持って守られていないと、これら遊びを台無しにしてしまうのである。

例えば、トランプがうっすらと透けてしまう素材だったら、純粋に気持ちよくカードゲームをすることはできないだろう。

例えば、トランプが柔らかい素材だったら、カードの折り目や傷が付き、それによって印ができてしまい、表面の情報を隠すことができなくなる。

恐らく、丁寧に扱えば、これら素材でトランプを遊ぶことはできるだろうが、常に遊び手には「疑い」や「気遣い」が頭の中に蔓延ってしまう。

遊び手が気持ちよく遊ぶためには、遊び手が全力で遊んでもそれが壊れない「強度」と、それが規律正しく守られるという「信頼」の2点が絶対条件にあるのだろう。

 

遊びを作る際、どうしても「どう面白くするか」という奇抜なアイデアを求めがちだが、そのアイデアを固定し、壊れないように組み立て、それによって遊び手に信頼を得なければならないことを忘れてはならない。

これは、子供が公園なんかで遊んでいるときに生み出される遊びと、「遊びとは何か」を真剣に考えて生み出した遊びとの大きな違いの一つだと思う。

前者の遊びというのも素晴らしいものなのだけど、やはり私は後者の遊びの方が美しく感じる。

どっちもの視点がいるのだけど、ここらへん、しっかり線引きして考えたい次第である。