戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「遊び」と「現実」

 

私は「遊び」という存在が好きだ。

だから、その「遊び」を学ぶべく、色々な人と話してみたことがある。

その中のとある人が「遊びは大切だ」と豪語していた。

それはとても納得できた。

しかし、あんまりにも豪語している姿を見て、少し違和感を感じた。

確かに「遊び」は素敵な存在だが、私はその「遊び」を大したものという風に持ち上げたくないと思った。

「遊び」は所詮「遊び」であって、だからこそいいのである。

 

「遊び」を定義してくれるのは遊び自身というより、その大外の「現実」なように思う。

どんだけ「遊び」が好きであろうと、私たちは「現実」に生きているのである。

どんなに技術が発展しようが、便利になろうが、どうあがいても「現実」に戻らないといけないのである。

だから「遊び」を「現実逃避」のような使われ方をするのは、あんまり好きではない。

ましてや、「現実」の在り方に納得できないからといって、「遊び」という概念を安易に利用して崩そうとするのも好きではない。

「遊び」ってそんなに便利な存在でもないし、なんなら「現実」以上に曖昧で脆いものだから、むしろ不便に近しい。

もはや「遊び」という表面的な楽しそうな雰囲気だけで人を釣り上げようとしているなど、言語道断である。

 

「遊び」というのは確かに「現実」とは密接に絡み合っているが、「現実」とは全く違った観点からアプローチ、及び広げ方を見せてくれるのが魅力だろうか。

例えば「現実」において「ペン」は何かを書くための「道具」でしかない、つまり脇役の存在である。

しかし、「遊び」ではこの「ペン」そのものの魅力に着目し、それを「主役」として扱うことができる。

それは「現実」においては「だから何?」といった、そのラインでは価値を図れない部分だが、それは「遊び」では「面白そう」という軸状で世界観を回すことができる。

もちろん、それが間接的に「現実」にいい影響を与えることもあるが、「遊び」においてそれは目的ではない。

ただの副産物でしかない。

 

どうも「遊び」について語る時に「現実」での効果ばかり考えてしまうが、それこそ頭が「現実」というフィールドに根付きすぎであり、その人自身が遊びが足りないことなのだろう。

でも、そうやって「遊び」と「現実」を切り離すには、まず「現実」を満足させる必要があったり。

「遊び」を考えたい人ほど、「現実」を向き合った方がいいんだろうなぁ。