戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「ページをめくる」ということ

本というのはよいものだ。

とは言いつつ、本をたくさん読むわけではないが、本はいい。
本の内容どうこうではない。

「本」という形態が優れているのだ。

 

「ページ」という存在は、思いの外すごいものだ。

ある程度読み進めたらペラっとめくる。

この「めくる」という動作によって、読んでいてテンポ感が自然と生まれる。

今私の書いている電子の文章にはないものだ。

このテンポ感が「読んでいる」というのを実感させてくれる。

その実感によって、落ち着いて文章に向き合うことができる。

 

また、ページのおかげで、1ページ1ページに文章の内容とは違う、始まりと終わりが生まれる。

それは、自分が今どこを読んでいるのかの「指標」になる。
ページの端から端まで目を進めて、ページの終わりの文章まできたら無意識で「次のページだなぁ」と準備しているような。

「指標」というのは大切だ。

本という未開の地を黙々と歩み進めているわけだから、指標がなければ不安だし、迷子にもなる。

指標のおかげで、この未開の地を安心して突き進めるのかもしれない。

 

また、本は能動的だ。

読んでいて頭に入らなければ、もう一度その文章を読み返してもいい。

つまらなかったら読み飛ばしてもいい。

ちょっと先が気になってパラパラと先のページをめくってもいい。

本に書かれている内容は、自分ではないどこか誰かによって書き出されたものだが、その自分の知らない外側の情報を、究極的に自分のペースで、ある意味自分のもののように扱うことができる。

そんな絶妙な調整を「目の動き」だけでできるのだから、こんな都合のいいものはない。

その距離感がいい。心地よい。

 

本をぺら、ぺらとめくり、文章に目を走らせる。

少し疲れて、先の様子をパラパラとページを送ることで確認し、そして「今日はここら辺まで読むか」と決める。
読み終えて本を閉じるとき、一枚の薄いページが重なって、その厚さによって自分がどれだけ読み進めたのかを知る。

あんだけあったページが、残り少なくなって薄くなると、嬉しさと寂しさをほんのり感じる。

そんな何気ない「本を読む」という動きが、とても美しいように思う。