「記録」が好き
私はだいぶ考え込んじゃう人間だ。
考えることが好きで、なんでもかんでも自分の中で広げて、自分なりに整理して、自分なりに納得したい。
決して悪い癖ではないが、時には余計なことを考えすぎてしまって、身動きが取れなくなるどころか、ストレスで何もしていないのに自爆している時もある。
心配症で、敏感。
そんな時はどうするか。
私は「記録」を取るようにしている。
「記録」というと何か大事に聞こえるかもしれないが、そうではない。
むしろ大事になってはいけない、難しいことはしてはいけないのだ。
記録において、記録する物体はなるべくシンプルでなければいけない。
シンプルを積み重ねるからこそ、積み重なった時わかりやすい。
印をつける。
なんとなく書き写すとか。
切って貼るとか。
何を記録するかでやり方は違うだろうけど、とにかく単純でいい。
その印を記録していくのだ。
その印が何者なのか、わからなくていい。
わからないから記録するのだし、記録することでなんとなくわかってくるのだから。
印自体は淡白でいいが、それを記録するものは厳かなものの方がいい。
個人的にはノートとか、できれば安物ではなく、しっかりとしたノートがいい。
それだけで、記録物としての品ができる。
感触やサイズ感も大事なんだろうけど、それは人それぞれしっくりくればいいのだろう。
ここで書いている「記録」とは自分のための記録だ。
これを人に伝えるためとなると、また考え方が違う。
しかし、どちらにせよ、まずは「自分のための記録」をして、そこで理解してから「他人のための記録」をした方が手間だが結局は良い記録になると思う。
「記録」の素晴らしさは形として現れるところだ。
思考には形がない。
だから素晴らしいのだが、だからこそ不安定でもある。
この不安定を楽しむには、安定が必要なのだ。
思考において恐ろしいのは、自分を誤魔化すことだ。
それをしてしまうと、一瞬うまくいったように見せることができるが、一生健全な思考を取り戻すことはできない。
何せ、自分を誤魔化すとは、嘘をついている自分を誤魔化してしまい、そうなっている自分を認知できなくするのだから。
だからこそ、思考の一部を何かしらの形として残し、自然な形で自分を客観視したいのだ。
そのなんとなく印した、その選択こそ自分の思考の一部である。
今こうして、なんとなくあった自分の考えを、文章として書き残しているのも一つの自分のための記録だ。
こうして、残すことで安心してこの事柄を手放して、違うことを考えられる。
自分の日常を楽しむためのコツである。