戯れ散歩

”遊び”について、考えていきたい次第。

「広がり」と遊び

 

遊びには「しまり」というのは大切なんだろう。

自由と謳って、ただユルユルのものを渡されても、それをどう戯れていいのかプレイヤーはピンとこない。

「なんでもできる」というのは、「なにもない」と変わらないのである。

プレイヤーをプレイヤーたらしめるために、なにを、どのように、どうするのか、具体的にかつ、わかりやすく提示しなければならない。

そこには鋭いコンセプトによる、しっかりと、はっきりとした「制限」が必要なのである。

しかし、ただただ狭めるだけでいいわけでもない。

その戯れ、遊びに「面白そう」と感じたり、夢中に取り組めるのは、しっかりとした隔離・制限があると同時に、それが広がっていく「可能性」がある、それを感じれることも大切なのではないだろうか。

例えば、SNSとかの面白さというのは、一つに自分の投稿は「もしかすると」バズったり、他の多くの人たちに注目される「かもしれない」。

例えそれが難しいとしても、それを完全に否定することはできない。

自分が楽しむ小さな遊びの感覚が、大きな広い世界につながる、かもしれない。

そうすることで、よりその小さな遊びの感覚を肯定できるし、また大きな世界と小さな世界の行き来によって風通しがよくなる。

 

この可能性はめちゃくちゃ低くてもいいし、なんだったら嘘でもいい。

大事なのはプレイヤーがちゃんと「かもしれない」と認識することで、この「かもしれない」という感覚が、プレイヤー自身の遊びの視点を無意識に広げることができる。

「希望を持とう」「夢を持とう」という言葉は、正直ちょっと臭いなと思ってしまっていたが、期待してしまうからこそ、辛いことも、苦しいことも、しょうもないことも、どうでもいいことも、その期待と繋げることで受け止めて、それらを面白がることができる、のかもしれません。